【食物語・ソースカツ丼(中)】 都市から食の遺伝子 謎めいた世界

 
東京五輪の年に創業した城前ハトヤ食堂の鈴木さん。「昔はソース味が当たり前」というカツ丼は、注文が少量の場合、フライパンに油を張ってカツを揚げる=会津若松市

 会津のご当地グルメとして知られるソースカツ丼。「その世界は謎めいて、起源は諸説ある」。そう語る伝統会津ソースカツ丼の会の中島重治会長(65)ら会津人の言葉は、聞く者を「濃厚な物語」へと引き込んでいく。

 まずは「ソース」も「煮込み」も含めたカツ丼全体のルーツの話からひもとこう。

 「定説」として知られるのが1921(大正10)年、早大高等学院の学生が考案した説。カツと飯を丼にまとめ特製ソースのようなものをかけた。それが広がったという。

 もちろん異説もある。

 ◆ドイツ仕込み

 会津若松市で2014年開かれたカツ丼絆サミットにも参加した福井市の食堂「ヨーロッパ軒総本店」は、創業100年超のソースカツ丼の老舗だ。

 社長の高畠(たかばたけ)範行さん(64)、専務の輝成さん(40)父子によると、創業者高畠増太郎はドイツでの料理修業を経て1913年、東京の早稲田鶴巻町で開店。日本人向けに調整したドイツ仕込みのウスターソースを普及させようと同年、都内の料理発表会でソースカツ丼を披露したという。

 いずれにしろカツ丼は、洋食とソースが普及し始めた大正時代に都市でソースカツ丼として誕生。その後、地方へ広がり、アレンジが加えられたようだ。

 ◆研究重ね誕生

 一方、会津のソースカツ丼の起源は、ソースカツ丼の会が(1)大正説(2)戦前説(3)戦後普及説―の三つを掲げる(ひとくち豆知識参照)。時期は違うが、おおむね東京の洋食文化に刺激されたとする点で共通している。

 逆にカツ丼界の雄、煮込みカツ丼の姿は、昭和40年代初めまで会津では見えない。会津若松市の城前ハトヤ食堂は1964年創業。店主の鈴木勝栄さん(78)は「当時、カツ丼は頼まれれば作る裏メニューだったが、カツ丼と言えばソースだった」と半世紀前を振り返る。

 この、ソースばかりで、煮込みがない状況は、ヨーロッパ軒総本店がある福井県と同じだ。「増太郎は、故郷福井に関東大震災後戻り開店。ソースカツ丼も、のれん分けで県内に広がった。開店当時、県内には(煮込みを含め)カツ丼がなく、今でも福井でカツ丼と言えばソースカツ丼を指す」と輝成専務は話す。

 会津の場合も、福井県の「法則」を当てはめれば、カツ丼自体が知られていない時期、洋食店発祥の本格的なソースカツ丼がいち早く東京から入ったため、煮込みカツ丼の入り込む余地が残らなかった―とも推察できる。

 中島会長は「結局、詳しいことは分からない」としながらも「かつて会津の料理人たちが、おいしくて喜ばれる料理を提供しようと、研究と努力を重ね生み育てたのがソースカツ丼だったのは確か。だからB級グルメとは言ってほしくないんだ」と言う。

食物語・ソースカツ丼

食物語・ソースカツ丼

食物語・ソースカツ丼

(写真・上)昭和30年代、会津若松市の洋食店「中島グリル」の店頭に出された看板。多彩なメニューの中に「グリル風カツ丼」の文字も(中島重治さん提供)(写真・下)1913年創業の老舗「ヨーロッパ軒総本店」の代名詞となっている「ソースカツ丼」(税込み880円)(ヨーロッパ軒総本店提供)

 ≫≫≫ ひとくち豆知識 ≪≪≪

 【会津ソースカツ丼起源3説】 (1)大正説=カフェ全盛期に洋食のコックが、かば焼きからヒントを得て、カツを甘めのソースで絡め作ったまかない料理(2)戦前説=会津若松市の食堂の店主が東京からコックを招き生み出した(3)戦後普及説=会津若松市の食堂の店主が東京で出合ったソースカツ丼をアレンジしオリジナルソースで煮込んだ料理を出し、広がった。

 【全国にソースカツ丼の街】会津や福井県と同様、昔からソースカツ丼が一般的に食べられている地域は、全国各地に点在する。長野県の駒ケ根市と伊那市は、ともに地域振興策の一環として「ソースカツ丼発祥の地」を掲げる。群馬県では前橋、桐生両市。山梨県では甲府盆地で、カツ丼と言えばソースカツ丼を指すという。

 【早稲田発祥説】丼物全般をまとめた本「ベストオブ丼」(どんぶり探偵団編著、1987年、文芸春秋)によると、起源の「定説」は1921(大正10)年2月、早大高等学院の学生、中西敬二郎さん(83年8月没)らの考案。同校近くの食堂で「カツ飯」(カツライスか)を丼に収め、ソースとメリケン粉を煮合わせてかけたものが都内で広がり、この年の夏には大阪で卵でとじた煮込みカツ丼となり登場したという。