【食物語・川俣シャモ(上)】 旦那衆の闘鶏が起源 福島県のブランド地鶏

 
全国有数のブランド地鶏、川俣シャモ。江戸時代から闘鶏用として飼われたシャモがもととなった=川俣町

 「ピヨピヨ」と鳴き声が聞こえてきた。白衣に着替え、帽子をかぶり室温30度以上の高温多湿の作業場に入ると、殻を破って生まれ出たばかりの約1100羽のひよこが元気に動き回っていた。川俣町の山あいにある川俣シャモファーム。ここでは町内にある13軒の養鶏農家に卸すひな鶏の孵化(ふか)が進んでいた。

 「『大事に育ててね』と生まれてくるんだ」。社長の斎藤正博さん(65)が話してくれた。本県が誇るブランド地鶏「川俣シャモ」生産の心臓部。28日かけてひな鶏を育て養鶏農家に出荷する。ここから川俣シャモの物語が始まる。

 ◆特産物のヒント

 福島民友新聞社川俣支局に赴任して以降、友人から決まって言われるのが「川俣シャモを食べさせてよ」。町特産の川俣シャモの知名度を実感する一こまだ。川俣シャモにまつわる歴史は、記者が生まれた翌年の1983(昭和58)年ごろまでさかのぼる。「町内でも何か気の利いたごちそうを提供できないか」。グルメとして知られ、特産物での地域活性化も模索していた当時の川俣町長の発案から取り組みがスタートする。

 「陳情などで訪れた東京で食べたシャモ料理がうまかったらしくてね」と斎藤さん。名物を考えていた町長の目に留まったのがシャモだった。川俣でもおいしいシャモ料理を提供したいと、町長の呼び掛けに応じた町内の農家が集まり、町ぐるみでシャモを特産にする挑戦が始まった。

 ◆町に根付く文化

 「川俣シャモは"ぽっと出"の地鶏じゃない。歴史的背景があったからこそなんだよ」。斎藤さんが強調するように、町内には養鶏が根付く文化があった。町は江戸時代から戦後にかけて全国屈指の絹織物産地として栄え、絹の取引に訪れる商人でにぎわった。

 江戸時代、幕府の直轄領「天領」では闘鶏が盛んだったという。川俣もその一つ。川俣には代官所が置かれていた。財政が豊かだった証しなのかもしれない。財政豊かな土地には庶民の間に娯楽が広がる。その中に、絹織物でもうけた"機屋(はたや)の旦那衆"が楽しむ闘鶏があったようだ。海外の合成繊維に押されて絹産業が斜陽の時代に入っても闘鶏文化は生き続け、町民は趣味として闘鶏用のシャモを飼った。

 ◆天然記念物の壁

 シャモ肉と聞くと、シャモ鍋が好物だったという坂本龍馬が思い浮かぶ。しかし、坂本が生きた時代と現代とでは事情が異なる。シャモは国の天然記念物に指定され食肉として扱えない。そのため川俣では食肉化の取り組みが必要だった。

 筋肉質の純系シャモの雄と卵肉兼用種のロードアイランドレッドの雌を交配させ、86年ごろに"初代"の川俣シャモが誕生した。弾力があり、うまみが強い肉質の川俣シャモの開発に成功したが、本格的な事業化には乗り越えなければならない壁があった。ブランド地鶏として知られるようになるまでには、もう少し時間がかかる。

食物語・川俣シャモ

食物語・川俣シャモ

(写真・上)川俣シャモ誕生には歴史的背景があったと話す斎藤さん(右)(写真・下)メンチカツやシャモつくねなど川俣シャモを使った料理は豊富だ

 ≫≫≫ ひとくち豆知識 ≪≪≪

 【うまみぎゅっと蓄える】川俣シャモを育てるのは川俣町内の農家のみで、文字通り町の特産。鶏舎で放し飼いにする「平飼い」を採用しており、1平方メートル当たり6~8羽の広さを確保。期間は110~114日間とブロイラーに比べて長めで、肉にうまみをぎゅっと蓄える。十分に育った川俣シャモは県内で処理され、加工と販売を担う川俣町農業振興公社を通して料理店や販売店に流通する。町内の道の駅川俣「シルクピア」では、シャモメンチ(税込み260円)などが味わえる。
 
 【感謝の思い込め供養祭】川俣シャモの養鶏農家でつくる川俣シャモ振興会は毎年12月、川俣町内にある円照寺で川俣シャモの供養祭を行っている。寺には川俣シャモを供養する鶏魂碑(けいこんひ)がある。養鶏農家のほか、町や町農業振興公社の関係者が出席する。出席者は鶏魂碑の前で手を合わせながら、川俣シャモに感謝し、飼育への決意を新たにする。