【食物語・小名浜の干物】 職人の技と誇り凝縮 魚の質見極め風を読む

 
地元に水揚げされた魚で干物作りが盛んだった小名浜港周辺。現在は北海道で取れたサンマを使って名物のみりん干しが加工工場で作られている=いわき市小名浜・万宝屋商店

 おかずとして食卓を飾り、酒の肴(さかな)にもなる干物。いわき市に点在する港町ではかつて干物の生産が盛んだった。干物と言っても同市小名浜が発祥の「サンマのみりん干し」をはじめ魚種や味付けによって違った魅力があり、ひとくくりにできない。

 「私が子どもだった昭和20、30年代、町中の至る所で干物が干されていた」。干物作りのベテランで小名浜にあるサスイチ小野水産社長の小野輝男さん(74)は懐かしそうに記憶をたどった。店では60年間変わらぬ味を提供する。同市でもほとんど見られなくなった天日干しの干物はうま味をギュッとため込み、県外から買いに来るファンも多い。「ここの魚はうまいぞと思ってほしい」との一心で干物を作り続ける。

 魚を自家製の"秘伝のたれ"に漬け込み、干す。単純な作業に聞こえるが、「昔の職人は自然を読みながら干物を作っていた」と小野さんが教えてくれた。魚の質を見極め、天気を予想して風を読む。常磐沖は漁獲される魚の種類が多い。日照時間が長く、雑味のない潮風が吹く中、職人たちは努力を重ね、おいしい干物を作ってきた。それが全国に知られる干物の産地につながった。

 いわき名産のメヒカリも干物になる。ことしのメヒカリは型が大きくて脂の乗りが良く「最高」と小野さんは言う。北海道産の昆布を使ったたれに漬けたメヒカリを干しながら、「干物は簡単にできるものではない。培ってきた技術と作り手の『おれげの(自分の家の)干物』という誇りでできている」

 ◆受け継ぐために

 保存食として家庭にも広まった干物だが、食生活の変化や水揚げの減少などから、軒先に干物をぶら下げる家は少なくなり、業者も減っていった。原発事故の影響も暗い影を落とす。飛ぶように売れていたサンマのみりん干しも、専門に扱っている業者は2、3社を残すのみとなった。そんな中、名物を残そうと立ち上がった人たちがいる。水産加工業者でつくる「いわきサンマリーナ研究所」がその一つだ。

 代表の上野台優さん(41)は「当たり前にあったものが途切れそうになっている」と危機感を募らす。上野台さんらは昭和の味を守りつつ、主婦層をターゲットに、デザイナーが手掛けたパッケージを施すなど新たな手法で売り込みを図る。メンバーで小名浜にある万宝屋商店取締役の小野利之さん(46)も門外不出のたれに漬けたみりん干しを生産する。2人は「親から子、その子に伝え、干物がまた『当たり前にあるもの』になってほしい」と口をそろえる。

 ◆風景は消えても

 今でこそ値の張る品もあるが、干物は本来、家庭や町中の魚屋が作り、誰もが口にした庶民食。歩けば干物の香りがするかつての町の風景こそ失われたが、食べることができなくなったわけではない。取材先からもらったり、購入した干物は味こそ違えど、どれも美味。作り手がこだわり、甘く、辛く仕上げたたれと、乾燥時間の違いによる異なる食感。職人の誇りも一緒にかみしめながら、いわきの名物の名が再びとどろくことを願った。

食物語・小名浜の干物

食物語・小名浜の干物

(写真・上)天日干しにされるメヒカリ。この日は快晴で風も良く小野輝男さんは「最高の環境」と話す=いわき市小名浜・サスイチ小野水産(写真・下慣れた包丁さばきでサンマを調理する地元の女性

 ≫≫≫ ひとくち豆知識 ≪≪≪

 【研究重ねサンマ製品化】いわき市を代表する魚であるサンマを使った干物「サンマのみりん干し」を作ったのは千葉県から同市に移住してきた安川市郎氏とされる。安川氏はイワシのみりん干しを作っていた。1945(昭和20)年ごろからイワシが不漁となり、安川氏は水揚げが豊富だったサンマに目を付けた。脂肪が多く、干物に適さないとされていたサンマを研究し、48年に製品化に成功した。戦後の食糧難や保存食の需要の高さから、サンマのみりん干しは爆発的に広まった。

 【地域を代表する保存食】冷蔵庫や冷凍庫が普及していない時代から、保存食としての干物はいわき市小名浜で一般的だった。水揚げされた魚を刺し身にしたり、焼いたりして食べ、余ったら干物にした。家庭の軒先には干物がつるされていた。加工業者は干物を生産・出荷しており、魚種により味付けも干す時間も違い、近代的な設備がなかった当時、試行錯誤を繰り返していた。小名浜を代表する加工品だが、今となっては知らない人も多い。