【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(2) 近代国家成立まで「40年」

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 前回は「明治維新とは薩摩、長州両藩などが、武力で政権を奪取した革命であり『維新』という言葉は革命を正当化するためのスローガン」だと述べた作家の半藤一利さん。第2回は明治政府による新国家の建設過程について論じる。

 権力闘争経て青写真

 さて、いったん明治維新の話を置いて、明治の近代国家建設を見てみたい。

 日本が世界に伍(ご)した近代日本を造り上げたのが明治38(1905)年、日露戦争に勝った時だった。つまり、明治が始まり40年かかって近代日本はできあがった。この見方は形としては、合っていると思う。

 ただ、その間に余計な戊辰戦争(1868~69年)という国内戦争を行った。これは、私に言わせると行う必要がない戦争だった。

 しかし薩長(薩摩、長州両藩)の人たちに言わせると、自分たちが天下を取るためには、どうしても必要な戦争だった。この理由は後に述べる。

 さて、新政府の内部は、明治10(1877)年の西南戦争(注1)までは権力争いばかりだった。薩摩、長州、土佐、肥前、それに後から仲間入りした勢力。その中から、まず西南戦争で薩摩が追い出され、長州が天下を取った。さらに長州が、明治14年に土佐と肥前を追い出した(明治14年の政変=注2)。この過程で、明治新政府はやっと安泰した。

 ただ、どういう国家を造るかという青写真は一切なかった。

 その一方で、(政府中枢から追われた)板垣退助らの土佐、大隈重信を中心とする肥前の民権派の運動(自由民権運動=注3)が高まっていった。

 そこで、伊藤博文(注4)を中心とする新政府の長州勢は「それでは西洋国家のような新憲法をつくり、議会を開いて、おまえたち(民権派)にも議員として参画してもらい、議会によって運営していく国家にしよう」となだめた。

 そして、伊藤たち頭のいい人たちが、欧州を勉強のため回り学んできたことが、憲法をつくるということと、国家は「機軸」(中心となるもの)が必要だ―ということだった。

 国には、西洋の場合、キリスト教、イスラム圏などではイスラム教といった、しっかりした機軸となるものがある。しかし日本にはない。それではと、万世一系の天皇を機軸に置き、結果的には立憲君主国家(注5)を造るということになった。

 そして明治22(1889)年、明治憲法が発布された。その時、初めて近代国家の像、どういう国家を造っていくかというイメージが決定した。

 「明治維新」と簡単に言うけれど、明治維新で近代国家がスタートしたのではなくて、権力闘争をやった揚げ句、やっと明治20年代になり近代国家のイメージができたわけだ。

 ただし、そこで注意しなければならないのは、軍隊(の創設、増強)だけは先にスタートしてしまったことだった。軍隊だけが先にスタートしたというのは、私のほかには誰も言わない。しかし、ここが一番大事なことだと思う。

 (簡単に軍隊の初期を見ると)新政府軍はまず明治10年の西南戦争で、当時日本最強と言われていた薩摩軍を相手に戦った。これに対し、周囲では誰も新しい軍隊の勝利を確信していなかった。先見の明がある勝海舟(注6)ですら、薩摩が勝つと思っていた。

 ところが新政府軍は、資金をありったけ使い、近代兵器、先込め銃ではなく元込め式の連発銃を米国から大量に買った。ちょうど米国は南北戦争(1861~65年)の後で、銃も弾も余っていた。

 それで(練度の低い)新政府軍の兵隊に、銃が旧式の薩摩軍は全然相手にならない。つまり新政府軍は武器の力で勝った。

 明治に元号が変わった1868年に新しい近代国家がスタートしたのではなく、こんなふうに国家というものができあがったのが、本当のところじゃないか―というのが私の明治維新論なのです(つづく)

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された半藤一利さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。

注1)西南戦争(せいなんせんそう) 1877(明治10)年、西郷隆盛(薩摩藩出身、元政府参議など)らが鹿児島で起こした反乱。政府と地元士族との対立が高まる中、私学校の生徒らが、政府内の権力争いに敗れ帰郷していた西郷を擁し挙兵したが、政府軍に鎮圧された。

注2)明治14年の政変 政府内の憲法制定議論で、プロシア式の憲法を支持する長州藩出身の伊藤博文(注4参照)らが、英国型の憲法を支持する佐賀藩出身の大隈重信らを政府から追放した事件。

注3)自由民権運動 明治初期、薩長を中心とした政治(藩閥政治)に反対し国民の自由と権利を要求した政治運動。1874(明治7)年の板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出から運動が全国に広がった。県内では河野広中らの活動が有名。

注4)伊藤博文(いとうひろぶみ) 長州藩出身の政治家。明治憲法立案に当たり、初の内閣総理大臣、枢密院、貴族院の初代議長を歴任。

注5)立憲君主国家 憲法に基づく政治を基礎とした君主国家。歴史的には絶対君主が、市民階級の要求をいれ生まれた。