【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(3) いち早く「軍事国家」着手

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 近代国家日本の「青写真」ができたのは、明治憲法が制定され国会が開設された明治20年代前半―と説く作家の半藤一利さん。今回は、その近代国家建設より、一足早く始まった「軍事国家の建設」について詳しく語る。

 政府や憲法から独立

 近代日本のスタートが明治22(1889)年だったなんていうのはちょっと無理だよ、もう少し前だよ―という人がいる。しかし明治維新が、明治元年スタートであるなんていうのはあり得ない。

 ただ、軍事国家としての日本を見ると、スタートは西南戦争の翌年、明治11(1878)年だ。

 これを話すと統帥権(注1)なんのと複雑になるから簡単に話すが、西南戦争を先頭で戦ったのが長州藩出身の山県有朋(注2)。山県は戊辰戦争の時、会津や長岡の攻撃に参加するなどして、実戦体験がものすごくある。

 (注・山県は、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀となり、長岡=現新潟県長岡市=の戦いでは苦戦の末に長岡城を攻略。会津戦争では鶴ケ城の攻囲戦に参加した)

 この男が実戦で痛感したのは「いちいち軍隊の作戦を上の方に許可を求めていると間に合わない。軍隊というのは臨機応変、あるいは独断専行、それを許さない限りにおいては戦えない」ということだった。

 それにもう一つ「独断専行したからといって、いちいち刑法で『これが間違いなかったかどうか』なんて言っていたら、軍隊の士気は上がらない。従って、軍隊のことは軍事法廷を開き軍事裁判で裁く、つまり治外法権にしなければいかん」と考えた。

同時に「時の政府の外交がどうの―ということに制約されたのでは、軍隊は本当の力を発揮できないから、政府からも独立しなければだめだ」。そういう理由から「軍隊だけは天皇の直属にすべきだ」と山県は主張した。

 ただ、その時は、天皇はまだ(明治憲法が施行されておらず)「機軸」ではないが、いずれにしろ天皇は薩摩、長州が担いでいた。錦の御旗のように担いでいるだけだが。

 すると、軍隊というのはどうしても独立せざるを得ない―ということに政府内でもなった。それで、後の時代になると、作家の司馬遼太郎さんが言うように「国家の中の別の国家のような」軍隊が成立した(司馬遼太郎著「この国のかたち」)。

 (注・山県の献策に基づき1878=明治11=年12月、陸軍省内にあった参謀局を改め参謀本部が設置された。併せて参謀本部長が天皇直属として軍令をすべて管掌することなどを定めた参謀本部条例が制定された。山県は陸軍卿を退き参謀本部長に就任した)

 だから軍隊を見ると(立憲君主制の国家としての出発点となる)明治憲法が発布された明治22(1889)年より前、明治10年代に統帥権が独立し、軍事国家日本というのは、いち早くスタートしていることが分かる。

 軍人勅諭(注3)ができたのも明治15(1882)年。明治憲法の施行より前なのだ。
 だから明治憲法には、軍隊に関する条項は2項目しかない。天皇が軍隊を統率する―というのと、軍隊の備品、お金のことは天皇が決める―と。要するに軍隊は天皇直属で、政府、憲法とは関係ないんだということだけを憲法では決めた。

 いずれにせよ明治国家というものは、民政と外交は伊藤博文、軍事は山県有朋という長州の2人の御大将が引っ張って造り上げていったわけです。(つづく)

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

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 はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。

(注1)統帥権(とうすいけん) 軍隊の最高指揮権。明治憲法下で天皇の大権と規定され、一般の国務から独立するとされた。

(注2)山県有朋(やまがたありとも) 明治、大正時代の政治家。元帥陸軍大将、内閣総理大臣などを務め軍や官政界に強大な勢力を振るった。長州藩の下級武士層の出身で、吉田松陰の松下村塾に学び、武士と農民、町民などの混成部隊、奇兵隊の軍監を務めた。

(注3)軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ) 明治天皇による「陸海軍人に賜はりたる勅諭」の略称。忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つの徳目を説き、旧陸海軍の精神教育の基本とされた。