【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(4) 藩の軍事力つぶす戦争

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 「明治維新」「尊皇攘夷(じょうい)」といったスローガンについて考え、薩長を中心とした近代国家建設の足取りを見渡してきた作家、半藤一利さんによる「再考」。今回は、明治政府は、なぜ軍事国家造りを急いだのか、戊辰戦争は必要だったのか―について語る。

 「反乱の芽」事前に摘む

 憲法を定め国会を開設して近代国家としてのスタートを切るのに先立って、軍事国家の整備を急いだのが明治政府だった。そういう意味で言うと「おまえたち(政権を握った薩長などの勢力)は、一体何なんだ」ということになる。

 確かに(明治政府は憲法制定や国会開設に先立ち)四民平等(注1)、廃藩置県(注2)などの改革を行った。しかし、簡単に言うと明治維新というのは、天皇を京都から引っ張ってきて宮城(きゅうじょう)(江戸城)の中に入れただけだった。そして、天皇は当時、軍隊を持っていない。御親兵というものがなく、軍隊は各藩が持っていた。

 「それでは、大変だから、天皇を守る軍隊をつくらねばならない」と(政権内では)当然そういうことになる。形としては、天皇を守るために御親兵というのが必要になった。ただ、あの軍隊整備は、明らかに(薩長土など)自分たちの新政府を守るためのものだったのだが。(注・御親兵=後の近衛兵=は1871=明治4=年、鹿児島から上京し政権に加わった西郷隆盛を中心に創設。薩摩、長州、土佐3藩から出た1万人が9個大隊、6個砲兵隊に編成された)

 さらに、各藩が持っている軍隊をつぶさないことには(どこかでクーデターが起こったりすると天皇を守りきれないので)危なくてやっていられない―と。

 それで、廃藩置県をやって藩を解体し、各藩の兵力を撤廃させた。中央集権制の統一国家を造るためにはその方がいい。それから徴兵制を敷いた。(注・山県有朋が中心となって進めた徴兵制は、全国の男子を20歳で徴兵し、2年間の兵役後、予備役に編入する国民皆兵制度で、四民平等が前提となった。政権内では長州藩出身者を中心に士族による軍の編成を求め国民皆兵に反対する声が上がった)

 つまり明治政府が、すぐやり出したことは、自分たちの政府を守るための軍隊の整備だった。四民平等も廃藩置県も、そうせざるを得ないからやっているという側面がある。その軍隊を早めに政府から独立させて軍事国家への道を着々と歩み出した―というのが明治政府だった。

 戊辰戦争についても、明治政府側にとっては、各藩が持っている軍事力をつぶすためには必要な戦争だったと言える。

 結局、戊辰戦争では会津、長岡、仙台、鶴岡など奥羽越列藩同盟の軍隊をすべてつぶした。だが、それでも、その後、秋月の乱(注3)など士族の反乱が各地で起きている。(政権が変われば)反乱がぼんぼん起きるから(東北や北陸では)起きる前につぶしたわけだ。

 つまり(戊辰戦争というのは薩長土肥の側が、反対する東北などの軍事力をあらかじめつぶすため)やらなくていいけんかを売ったものだった。薩長の革命にうまく乗せられたんですね。(つづく)

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

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 はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。

(注1)四民平等(しみんびょうどう) 明治政府が、江戸時代の士農工商の身分制度を廃止した時のスローガン、あるいはそのための一連の政策。これによって身分を超えた婚姻や職業、居住の自由などが認められた。

(注2)廃藩置県(はいはんちけん) 明治政府が1871(明治4)年、全国261の藩を廃止して県府を置いたこと。全国3府302県がまず置かれ、同年末までに3府72県となった。

(注3)秋月(あきづき)の乱(らん) 1876(明治9)年10月、旧秋月藩士(秋月藩は福岡藩の支藩)らが起こした反乱。政府の対韓政策を批判して、熊本県の神風連(じんぷうれん)の乱、山口県の萩の乱に呼応して挙兵したが、小倉鎮台(現北九州市に置かれた陸軍の部隊)の兵に鎮圧された。神風連の乱、萩の乱も、ともに当時の政権に対し不満を持つ士族の反乱。