【維新再考・識者に聞く】中村彰彦さん(4) 幕府の国防...会津が先導

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 会津藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に就いた理由は藩祖保科正之の教えが強く影響した―と説く作家の中村彰彦さん。第4回は、会津藩が19世紀初めから国防に関与し、幕府を支えてきた点を論じていく。

 外患対応で厚い信頼

 会津藩の京都守護職就任は、名家老田中玄宰(はるなか)(注)による藩政改革に端を発している。戊辰戦争では、西国諸藩に比べて軍備の西洋化に後れを取った。しかし、明治維新の端緒である欧米列強との外交が緊迫する維新前夜までは、会津藩が当時最高の軍事力だった。

 玄宰は軍制改革を重視した。鉄砲や弓、槍(やり)、騎馬が出番ごとに戦う戦国までの戦法を捨て、実戦的な集団戦法の「長沼流兵学」を取り入れた。鶴ケ城三の丸で練兵を行い、2年に1度は郊外で「追鳥狩(おいとりがり)」と呼ばれた大演習を展開した。これが諸藩の注目を浴び、強藩として認識された。

 《(編注)玄宰が活躍した18世紀後半から19世紀初め、日本近海にたびたび異国船が出没する。開港や通商を求めるロシアは、拒否する幕府に業を煮やし、1806(文化3)年以降、樺太(からふと)(現サハリン)や蝦夷地(えぞち)(北海道)で襲撃事件を起こす。これに対抗して幕府は東北諸藩に出兵を命じた》

 会津藩は幕府の窮地を助け、武威を天下に示そうと、自ら出兵を願い出た。

 判断は、まだ5歳だった7代藩主の松平容衆(かたひろ)に代わって玄宰が行った。保科正之を崇拝する玄宰は会津藩家訓(かきん)を思い、「いまこそ役に立つとき」と奮い立った。国防の第一線に躍り出た瞬間だ。

 《(編注)会津藩が出兵したのは1808年。藩兵約1600人で樺太や宗谷、利尻島などに出兵し、ロシアの来襲に備えて見張りと警戒を続けた。この年、幕府からの命で引き揚げた。環境の激変で50人以上が命を落としている》

 幕府は領土的野心を含んで国交を求める諸外国に衝撃を受け、江戸湾の守備を固める。まっ先に頼りにされたのは会津藩だ。1810年から三浦半島の沿岸警備を10年続けた。1847年からは房総半島の警備に就いた。アメリカのペリーが艦隊を率いて浦賀沖に来た時も警備に加わっている。

 樺太出兵や江戸湾警備で、幕府に「困ったときは会津藩に頼めばいい」という感覚が芽生える。これが京都守護職の任命につながる。玄宰の志から幕末まで、会津藩は終始一貫して国防に当たった。幕末には、諸外国という外患から、過激な尊皇攘夷(じょうい)派という内憂に相手が変わっただけだ。

 幕末という短期間で歴史を考えるのは浅い。藩祖の保科正之、名家老の田中玄宰の優れた政治こそ会津藩の美点だが、戊辰戦争ばかりに注目がいくのは悲しい限りだ。(つづく)

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

(注)田中玄宰(たなかはるなか)(1748~1808年) 会津藩の家老、のち大老。軍制や教育、行政、財政、司法の改革を断行し、酒造や漆器、ロウソクなどの産業振興、藩校「日新館」の創設などで雄藩に押し上げた。大赤字の藩財政を改善し、家老就任時の借財57万両を約30年でほぼ返済したという。

 【補助線】 ≫≫≫ 白河、二本松藩も存在感

 江戸湾防備が急務と知った幕府は1810(文化7)年、会津、白河両藩に海岸警備を命じ、浦賀水道を挟んだ三浦半島と房総半島に砲台などを築いた。
 会津藩は現在の神奈川県横須賀市に陣屋を構え、藩士や家族千人以上が移住した。白河藩は現在の千葉県館山市などに陣屋を建て、大小砲127門を台場に備えた。1818年の英国蒸気船ブラザース号の来航時は、両藩が警戒に当たった。
 会津藩は1847年に2度目の江戸湾防備を命じられて房総半島で活動した。二本松藩は1858年に房総半島・富津砲台の警衛を命じられ、1867年まで続けた。この間、財政難の中にあっても自家用の砲を新造し、後に戊辰戦争の装備に活用している。本県の3藩は国防によって外国勢力と対峙(たいじ)しながら、激動の幕末へと進んでいく。(編集局)