【維新再考・識者に聞く】中村彰彦さん(6) 籠城で学んだ命の重み

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 官製史観により会津藩と白虎隊の評価のねじれ現象を指摘した作家の中村彰彦さん。第6回は、会津の女性たちに焦点を当て、戊辰戦争や明治以降の活躍と、その意義について語る。

 会津女性、看護に足跡

 殉難女性で有名なのは中野竹子(注1)。新政府軍が鶴ケ城を包囲しつつあった1868(慶応4)年8月25日、城下の柳橋周辺で戦闘が起きた。そこには、入城を目指す竹子やその母と妹、武芸の稽古仲間ら計6人の姿があった。竹子は薙刀(なぎなた)で奮戦したが銃撃され、最期を遂げている。

 すでに死を覚悟していた竹子の薙刀には、辞世の短冊が結び付けられていたといわれる。

 武士の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも

 数にも入らぬ女だが立派に戦ってみせる―との決意を詠んだ。後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる竹子ら会津女性の気概が伝わってくる。

 鶴ケ城に籠城した女性も懸命に働いた。手を火傷(やけど)しながらの炊き出し。鍋で鉛を溶かしての弾丸作り。最も大変なのが傷病兵の看護だ。医薬品が不足する中、傷病兵の傷口は化膿(かのう)して腐臭が立ちのぼっただろう。その膿(うみ)を拭い取るのも女性だった。

 新政府軍は鶴ケ城に激しく砲撃し、多くの人々が死傷した。着弾後に爆発する焼玉(やきだま)も撃ち込まれ、水をかけたり、ぬれ布団をかぶせて爆発を防ぐ命懸けの「焼玉押さえ」も女性の役目だった。

 籠城戦で積極的に戦った女性が、大河ドラマ「八重の桜」主人公の山本八重(注2)だ。炊事のかたわら城内から新政府軍を銃撃した。会津藩が降伏開城した9月22日の夜、八重は城内の雑物蔵の壁に和歌を刻んだ。

 明日の夜は 何国(いずこ)の誰か ながむらん なれし御城(みしろ)に 残す月かげ

 見慣れた城をあすはどこの誰が眺めるのか―と悔しさがにじむ。明治になると八重は、日本赤十字社の篤志看護婦となり、日清・日露戦争の負傷者を看護した。鶴ケ城の籠城戦での思いを重ねたことだろう。

 武士階級ではないが、幕末から明治の社会福祉・慈善事業家の瓜生岩子(注3)も忘れてならない。岩子は戊辰戦争時、敵味方なく傷病者の手当てに奔走した。後に「日本のナイチンゲール」とたたえられる活動の根底には、民間人や婦女子を巻き込んだ戊辰戦争の記憶があった。

 このほか、自刃した西郷一族21人の遺骨を拾い集めた井深登世は、看護婦として生き抜いた。家老山川大蔵(おおくら)(浩)の妹で日本初の女子留学生山川捨松も、帰国後は、看護婦養成や戦傷者救護に尽力していく。籠城した女性は、多くの戦死者から命の大切さを学んだのだ。戊辰戦争を契機に、会津の婦女子は日本に近代看護学を導入させる役割を果たした。これは会津藩に根付いていた慈愛の精神が影響している。会津は看護思想発祥の地と言っても過言ではない。(つづく)

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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 なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

(注1)中野竹子(なかのたけこ)(1847~68年)江戸の会津藩邸生まれ。武芸と学問に秀で、備中庭瀬藩主の奥方の代筆(奥祐筆)を務めた。66年から坂下(現会津坂下町)で若者に読み書きや薙刀(なぎなた)を教えた。戊辰戦争で戦死。法界寺に墓がある。

(注2)山本八重(やまもとやえ)(1845~1932年)後に新島姓。会津藩士の娘。戊辰戦争では断髪・男装で奮戦。京都府顧問の兄山本覚馬を頼って京都に移住。同志社英学校(現同志社大)を設立した新島襄と結婚し、同志社女学校で作法を教えた。

(注3)瓜生岩子(うりゅういわこ)(1829~97年)現在の喜多方市の商家の生まれ。孤児救済の育児院や貧困者向け病院の開設、磐梯山噴火の救援活動など生涯を社会福祉にささげた。96年に女性初の藍綬褒章を受章。死後、銅像が県内外に建てられた。

 【補助線】 ≫≫≫ 危険迫り自害相次ぐ

 「会津若松市史」によると、戊辰の戦火が会津に迫る中、会津藩は「敵が迫ったら城に走れ」と「触」を回した。新政府軍が城下に進攻した8月23日、死を覚悟し、刀だけを持って入城した婦女子は多い。降伏時の人数は婦女子570人、老幼575人だったという。
 自害者も多く8月23日だけで100人を超えた。家老西郷頼母の家族は当初から死を覚悟して入城せず、一族21人がそろって自邸で命を絶った。この時、新政府軍の兵士が瀕死(ひんし)の娘を見つけ、安心させるため「味方だ」と言って介しゃくしている。
 娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる女性たち約20人は自発的な一団。8月23日は集まれず、中野竹子ら6人が「柳橋の戦い」に参加した。新政府軍の勢力が各地に浸透すると、郊外に避難した藩士の家族に危険が迫り自害が相次いだ。会津藩の死亡した婦女子は約230人とされる。(編集局)