【維新再考・識者に聞く】磯田道史さん(下) 困難が人間を強くする

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 歴史学者、磯田道史さんの一家は、先祖の代から本県と、さまざまなゆかりがある。医学博士、野口英世の修業時代にも、大きな関わりを持った。そうしたエピソードを紹介しながら、今にも通じる幕末明治の「人づくり」について語る。

 ―磯田さんの祖先は戊辰戦争の時、会津で戦って亡くなった。数年前、その墓参で会津若松市を訪れている。会津の印象は
 
会津はいつ行ってもいい。文化がちゃんと残っている。もちろん親戚もいる。妻が4分の1福島なので。棚倉藩の藩士から日本画家になった勝田蕉琴(しょうきん)(注1)が、妻の曽祖父です。私の家は岡山藩の分家鴨方藩に仕え、同藩出身の画家・浦上玉堂(ぎょくどう)家(注2)と遠縁でした。玉堂も会津が好きで訪れています。蕉琴の「琴」も、浦上春琴・秋琴という、浦上玉堂の子の名からとったようです。日本画で、福島と僕の家族はつながっています。

 福島でいいのは、あまり知られていないが、日本画などの洗練された文化がある。能でも日本画でも和歌、書でも、会津藩の文化はすごい。それにもっと着目していい。私の妻の曽祖父の勝田蕉琴の絵も、たくさん県立美術館に所蔵されています。

 もうそろそろ「福島イコール被災地」ではなくて、「江戸の美の世界をけん引した福島」などと、福島本来の伝統や魅力を宣伝するのも必要です。

 ―確かに文化発信も復興の大きな手段の一つです。
 私の家族は、もう1点で福島と関係する。それは歯医者の関係で野口英世と交わる。幕末期、私の家の、当主のおいっ子にすごい秀才が生まれた。高山紀斎(きさい)(1851~1933年)という人。

 実は(幕末に)アメリカ海兵隊と(日本で)最初に交戦したのが岡山藩です。神戸で軍事衝突した。岡山藩はアメリカに歯が立たなかった。その姿を見て、藩は高山をアメリカに留学させた。軍人や政治家になれといってアメリカにやったのでしょう。

 ところが、高山は、甘い物が大好き。歯を痛めて、それで歯医者になる。日本で最初の西洋歯科医になった。そんな人を殺す軍事技術よりは、歯で苦しんでいる人を助けろとアメリカ人に言われたので。国に帰って西洋式の歯科医学を伝え、明治天皇と大正天皇の歯医者になった。高山は大正天皇の乳歯も抜いたらしい。

 それで、高山歯科医学院(注3)というのを創った。

 ―日本の近代歯科医学の礎を築いたわけですね。
 で、その時、学校を支えたのが元岡山藩士と元会津藩士だった。そして、その学校に入ってきたのが野口英世(注4)だった。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

(注1)勝田蕉琴(1879~1963年)棚倉町出身の日本画家。東京美術学校卒業後、インド留学を経て帝展などで活躍した。

(注2)浦上玉堂家 鴨方藩士(後に脱藩)の玉堂(1745~1820年)と長男春琴(1779~1846年)、次男秋琴(1785~1871年)はともに文人画家。秋琴は、父が土津神社の神楽を再興した功績によって会津藩士に。戊辰戦争後、備前藩士らと岡山へ帰った。

(注3)高山歯科医学院 1890年、東京で創設された日本初の歯科医学校。東京歯科大の前身。

(注4)野口英世(1876~1928年)猪苗代町出身の細菌学者。医術開業試験合格を目指す書生だった野口は1896年、高山歯科医学院で、寄宿舎に泊まり込み雑用をする「学僕」になった。

いそだ・みちふみ 1970(昭和45)年、岡山市生まれ。慶応義塾大大学院文学研究科博士課程修了。専攻は日本近世社会経済史、歴史社会学、日本古文書学。国際日本文化研究センター准教授。著書は「武士の家計簿」「殿様の通信簿」「天災から日本史を読みなおす」「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」など多数。