【維新再考・識者に聞く】森田 健司さん(5) 天皇や慶喜の姿勢揶揄

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 江戸時代の庶民の視点から戊辰戦争を検証している大阪学院大教授の森田健司さん。第5回は戦局が江戸城無血開城から東北方面へと向かう時期の諷刺(ふうし)錦絵から庶民の心情をみていく。

 戦局の変化、作品反映

 1868(慶応4)年4月の江戸城無血開城ごろに非合法で発行された「妖狐伝」。囲碁勝負を描いた構図で、両陣営が言葉を発している。対局者は左が明治天皇、右が前将軍徳川慶喜(よしのぶ)を指す。慶喜が唐人(架空の異国人)の格好なのは外国公使と親しかったことへの皮肉だ。

 天皇は「そなたに『しろ』がもちきれようか。こっちへ渡すか勝負するか。返答せよ」(意訳)と言う。対する慶喜は「ハイハイ、『しろ』をお渡し申す」と何とも情けない。『しろ』とは白い碁石と江戸城を掛けており、江戸城無血開城を指している。

 左側が新政府軍。薩摩藩は着物の柄が「丸に十字」(藩主島津家の家紋)の天皇のすぐ後ろの人物。「そんなことでは手のろい。四の五の言わさず一打ちやんねえ」と話し、倒幕のため開戦を望んだ薩摩藩の本質を描いている。

 右側が旧幕府側。女性は薩摩藩から徳川家に嫁いだ天璋院(てんしょういん)で「どちらが勝っても負けても困る」(意訳)と語る。一番下の男性は仙台藩(袴(はかま)の柄が家紋の竹)で「後ろにおれが控えている。もう一勝負やんねえ」と言う。東北の雄藩・仙台藩が旧幕府側とみていた。

 右側の一番上の男性が会津藩(着物の柄が家紋「三つ葉葵(あおい)」の簡略化)。「おれが引き受けて一勝負して手並みを見ましょう」(意訳)と言い放つ。江戸の庶民はやはり会津藩が動けば旧幕府軍が勝つと信じていた。

 江戸城無血開城後の5月、戦局は動きだす。東北と越後の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結んで新政府軍に対抗。江戸・上野では旧幕臣や旧幕府軍でつくる彰義隊が壊滅した。幕府びいきの江戸の庶民は東北雄藩の巻き返しに期待しており、諷刺錦絵に思いがにじむ。

 紹介するのは5月ごろに非合法で発行された諷刺錦絵「子供遊 力くらべ」だ。戊辰戦争の諷刺錦絵には、この作品のように諸藩を子どもに見立たものが多い。これは戦争自体を「子どもの遊びのようなもの」とあざける考えもあってのことだろう。

 右側が新政府軍、左側が旧幕府軍を示す。中央で相撲をとる右の子どもはふんどしに「サ」の字があることから薩摩藩、左の子どもはふんどしに「稲穂の模様」(画像不鮮明)があるため米沢藩を指している。江戸の庶民は東北雄藩を頼りにしつつ、薩摩藩を好戦的で手ごわい強敵と考えていた。

 明治天皇の姿勢に対する揶揄(やゆ)も込められた。絵の上部には「わがままに育てられたわらべ 礼儀を知らぬ人となりぬる」との文章がある。わらべとは天皇で、右上の背負われている幼い子を指している。セリフは「おもしろいな どっちもまけるな」と無責任な発言で、戊辰戦争を傍観する存在とみられていた。

 旧幕府軍で最も力強く描かれているのは、左側の一番下で背中を見せて座っている会津藩(着物の柄が「わっか」や松葉紋などで若松)だ。慶喜は「欄干模様」(一橋徳川家元当主で、欄干と橋を連想)の着物から左側一番上にいる。慶喜は相撲の取組を指さして笑い「一番とってこようか」と語っている。真意は、慶喜が戦わなかったことへの庶民の不満が読み取れよう。

 諷刺錦絵は戦況を比較的正確に伝えている。戦局の変化によって慶喜や天璋院らが姿を消していき、やがて会津藩などの東北諸藩の存在が高まっていく。しかし、江戸の庶民の思いに反して快進撃を続けたのは新政府軍の方だった。(つづく)

もりた・けんじ 1974(昭和49)年、神戸市生まれ。京大経済学部卒、京大大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。現在は大阪学院大経済学部教授。専門は社会思想史で、特に江戸時代の庶民思想の研究に注力している。著書に「明治維新という幻想」「江戸の瓦版」などがある。