【維新再考・識者に聞く】御厨 貴さん(上) 三傑失い大転換

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みくりや・たかし 東京都生まれ。東大法学部卒。ハーバード大客員研究員、東大教授などを経て、東大先端科学技術研究センター教授、東京都立大名誉教授、放送大学客員教授。専門は政治史、オーラル・ヒストリーなど。「日本の近代3 明治国家の完成」など著書多数。66歳。

 幕末の政治的な闘争と戊辰戦争の悲劇を経て、「明治」という時代は始まった。ただ「明治維新」という近代化への変革は、その後も長い時間をかけ、多くの人々の苦闘によってなされていった。「維新再考―識者に聞く」新章では、いったん激動の1860年代を離れ、政治学者の御厨貴さんが、明治10年以降の国会開設や憲法制定など、近代国家の柱である立憲政治の成立について語る。

 明治10(1877)年ごろ「維新の三傑」大久保利通(薩摩藩出身)、木戸孝允(長州藩出身)、西郷隆盛(薩摩藩出身)が相次いで亡くなった。西郷は、この国最後の士族反乱、西南戦争(1877年)を起こし亡くなり、木戸は議会制を入れようと言っていたが、同年病気で去った。大久保はその翌年、二人の死を受け、今後10年というのが明治国家の礎を築く時期であると部下の地方の県令に話した後、紀尾井坂で暗殺された。明治政府は当時「有司専制」(一部政治家、官僚などの独裁的な政治)と言ったが、この政治に、ぽっかり穴があいてしまった。

 ところが、この国は面白くて、その後に伊藤博文や山県有朋たちが現れる。これは薩長中心だが、大隈重信(肥前)なども加え連合政権として明治10年代はスタートした。

 藩閥政府と民権運動

 当時の政府を外から見れば薩長の、いわば藩閥政府に見えるわけだ。ただ、政府の中の連中は、薩長で全部政府を固めてと考えて実行するだけの余裕はなかった。それぐらい近代化というのは、すごい勢いで迫ってきた。それを「こなしていく」ことの方が重要だった。

 「こなす」ポイントは、この国に憲法と議会政治をどうやって導入するかだった。今後も独裁でいいなんて考えていたのは、薩摩の黒田清隆ぐらい。新政府が方針として定めた「五箇条の誓文」の第1条は「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」だったからだ。つまり、明治政府はスタートの時点で、すでに議会政治をやるよ―と公表しており、一つの重しが統治の側にはあった。

 ここが面白い。つまり、発展途上国などを見ると、政府が議会を開くと言っても、政府自らそんなことを守ってはいないし、反政府運動側も、そんな宣言なんて反故(ほご)にしてしまう。「やっぱり政府は議会なんかつくる気はなかった」という話になるが、日本の近代化の面白い点は、明治10年代以降、反対派の民権運動を敵視しながらも、やはり議会を日本に導入しなければいけないという、いわば強迫神経症的な近代化への風向きがあったということだった。

 よく言われるのは、この時期から藩閥政府と民権運動とあって、統治の側は弾圧ばかりする。一方、民権運動の側は、ときどきは武力を持って反乱、暴動を起こすところまでいく。そういう二項対立で語られてきた。だが私が調べてみたら、どうもそうではない。 

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。