【維新再考・識者に聞く】御厨 貴さん(下) きれいな選挙、すぐ限界

  このエントリーをはてなブックマークに追加 

 政党の必要性気付く

 近代国家建設へ国会の開会にこぎ着けた明治政府。しかし、選挙で議員が選ばれる衆議院は、反政府の姿勢を示す民権派の政党が多数を占め、「政府への議会の介入は許さない」と超然主義を宣言した藩閥側と激しく対立する。政治学者、御厨貴さんの「再考」最終回は、日本の議会政治の黎明(れいめい)期を解説する。

 1890(明治23)年、第1回帝国議会が開かれた。だが、藩閥政治と言ってはばからなかった政府の中枢も、総理大臣を決める段には譲り合った。なぜなら絶対うまくいかないと思っていたからだ。そして政府は、いよいよ議会政治が始まるという時、議会を民権派に明け渡してしまった。

 これは実に不思議なことだった。普通こんな政府はない。国が初めて議会を開設する場合、政府は政府党をつくり、選挙に干渉して政府党が圧倒的多数を占めるようにする―というケースが多い。しかし、それをせず、第1回の選挙は、武力干渉もなければ買収も行われず、模範選挙と言われた。なぜなら東洋で最初の議会の選挙が行われる、と西洋諸国が固唾(かたず)をのんで見ていたからだった。

 ただ、ちゃんとやった結果、民党(民権派各党の総称)が圧倒的多数を占める議会ができてしまった。

 政党側は「内閣制度ができたら次は議会だ。ここに、どうやって入り込んでいったらいいか」ということを考えた。この時、日本の民権運動の一つの限界が来た。それを象徴する、政党の側が言ったとされる有名な言葉が「よしやシビルは不自由であれ、ポリティカルさえ自由なら」。人権や市民権(シビル)が不自由でも、政治参加(ポリティカル)さえ自由なら私は政府を認める―という意味だ。

 つまり「自分たちも藩閥政府が持つ権限の一部に、議会の中から入り込み、政治参加を成し遂げることが最大の目的だ」と言ってしまった。これが当時の民権派の限界だった。逆に言うとそういう民権派だったから、後に政府と一緒にこの国の政党政治をつくることができたとも言える。

 さて、第1回の帝国議会。政府は山県有朋が総理大臣として議会に臨んだ。しかし、選挙で選ばれた議員は、政府と対立姿勢を示す民党が多数を占め政府の予算案を削ろうとする。

 政府は当然困る。富国強兵には予算を通さねばならない。それで、ここで初めて「金権」を発動した。つまり買収だ。それを主導したのが陸奥宗光。民党の土佐派は、かつて陸奥と一緒に政府転覆を企てた連中で、人脈的につながっていた。それで民党は、政府が困らない程度に妥協した。

 では、政府はこの事態を予測していなかったかというと、超然主義を宣言しているわけだから、議会が予算編成に入り込めぬような条文を作っていた。新年度予算を議会が削るなら、すでに議会を通っている前年度予算を政府がそのまま執行するというルールだ。今から考えるとそんなことできるのか―という話だが、しかし、これが政府には大失敗だった。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。