【維新再考・動乱の舞台】京都編1(中) 町焼かれ夜も明るく

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伏見の料亭「魚三楼」の格子戸には今も弾痕が残る

 鳥羽・伏見の戦いの舞台・伏見(京都市伏見区)は江戸時代、陸路が集中し、京と大坂を結ぶ水運の拠点だった。幕府の伏見奉行所や西国雄藩の藩邸もあり、交通の要衝として発展。豊富な地下水を生かして多くの酒造業者も誕生、天下の酒どころとして名をとどろかせる。今も「月桂冠」「黄桜」など有名酒造の酒蔵が立ち並ぶ。

 格子窓に弾痕が残る老舗料亭「魚三楼(うおさぶろう)」は、魚料理の仕出しや藩邸などの料理方を務めた。店の前の通りでは、鳥羽・伏見の戦いの際に新選組が副長・土方歳三の指揮で奮戦した。柳沢秀夫さんが歴史あるのれんをくぐった。

 老舗料亭銃撃戦の痕

 「会津の方には言いづらいのですが...」。応対した9代目主人、荒木稔雄さん(57)は丁重な前置きで語り始めた。「伏見での戦いの際、私の先祖は薩摩藩の陣地で炊き出しの役目を務めたのです」。伝承では、5代前になる4代目主人の妻が、薩摩藩の要請を受けて食事の準備に携わったという。

 「朝敵」布告で衝撃

 「一夜明けて先祖が店に戻ると、家には複数の弾痕が刻まれ、町の多くが焼け野原になり驚いたと聞いてます。さぞ恐ろしかったでしょう」。伏見の市中は大火に見舞われたが、魚三楼は焼失を免れた。柳沢さんは「弾痕を見て、話を聞いて、150年前の歴史は今も生きていると改めて感じた」と応じた。

 店内には、鳥羽・伏見の戦い直後に新政府が「前将軍徳川慶喜(よしのぶ)の追討」を布告したことを示す当時の瓦版が飾られている。荒木さんが見せてくれた。内容は「慶喜は賊徒・朝敵として追討」「賊徒と内通したり潜伏させたりしたら厳罰」などとある。新政府は旧幕府軍側を「朝敵、賊軍」と庶民に広めたい狙いがあった。

 柳沢さんは「当時は『錦の御旗』と同じぐらいの衝撃があったはず。この年の秋には会津藩の降伏・開城という運命が待ち受ける」と戊辰戦争の開戦を実感した。「ひたすら義を貫いた会津藩士の心情はいかばかりか」。布告通りに「朝敵、賊軍」のそしりを受けた会津の先人を思った。

 伏見での開戦初日となる慶応4年1月3日、会津藩などの旧幕府軍は伏見奉行所や伏見御堂などに詰めていた。奉行所は宇治川と濠川の合流地点に築かれた伏見港の管理の目的もあって低地に建てられている。対する薩摩藩は低地にある薩摩藩邸に陣を置かず、奉行所が見下ろせる丘陵の御(ご)香宮(こうのみや)神社などに陣を置いた。

 3キロ先の鳥羽での砲声を機に、薩摩藩が地勢を生かして狙いを定め一斉砲撃に出た。両軍とも大砲を撃ち合ったが、見晴らしのきく薩摩藩が有利だった。旧幕府軍も負けじと斬り込みを仕掛けて市街戦となったが、近代装備の銃火に追い込まれていく。奉行所や住居が炎上し、夜でも明るくしばらく戦いが続いたという。奉行所という拠点を失った旧幕府軍は淀(伏見区南部)方面に退却した。

 「全く痕跡がありませんね。この標柱だけか」と柳沢さん。薩摩藩の一斉砲撃を受けた伏見奉行所の跡地は、大規模な市営団地に姿を変えていた。西側の一角に「伏見奉行所跡」の標柱がある。標柱の周囲が白壁風に演出されているのが、せめてもの救いである。

 御香宮神社はその目と鼻の先、北東に約300メートル先にある。本殿(国指定重要文化財)が徳川家康の命によって建立されるなど徳川家とゆかりが深い。

 参拝客でにぎわう境内から少しはずれた駐車場の端に、50年前の「明治維新100年」の記念事業で奉納された「明治維新 伏見の戦跡」の碑がどっしりと立つ。時の内閣総理大臣・佐藤栄作が揮(き)毫(ごう)したものだ。

 脇の説明看板は、鳥羽・伏見の戦いについて「明治維新の大業はこの一戦で決した。近代国家に進むか進まぬかはこの一戦にあった。我が国史上、否、世界史上まことに重大な意義を持つ」とほめたたえている。「これがいわゆる薩長史観なんだろうな」。柳沢さんはぽつりとつぶやいた。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。