【維新再考・動乱の舞台】京都編1(下) 内戦に奪われた日常

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鳥羽の戦跡を訪れて巽さんから話を聞く柳沢さん(右)

 鳥羽・伏見の戦いのもう一方の舞台で、開戦の地となった鳥羽(京都市伏見区)へ向かう。開戦地は当時の鳥羽街道上で鴨川に架かる小枝橋付近という。橋を渡れば京まで一直線で、直線距離で10キロ足らずだ。

 旧幕府と新政府は「王政復古」のクーデター後、一段と対立を深めた。新政府が徳川家に官位を辞して直轄地の一部を返還(辞官納地)するよう決議したり、薩摩藩による江戸での挑発が相次いだりで、庄内藩などが薩摩藩邸を焼き打ち(12月25日)。これを機に薩摩藩討伐論が加速した。

 旧幕府軍は1月2日に大坂から京を目指して進軍を開始。3日午前から旧幕府軍が道を空けるよう薩摩藩と交渉を始め、にらみ合った。この間、薩摩藩は陣地を築き、近くの神社「城南宮」に主力部隊を置くなど迎撃準備を整えた。薩摩藩が大砲を据えた築山が「鳥羽離宮跡公園」に残る。夕方になって旧幕府軍が強行突破しようとした際、薩摩藩の銃砲が一斉に火を噴いた。不意を突かれた旧幕府軍は大損害を受けて後退した。

 実際に訪ねた鳥羽は今、開発が進んで住宅地や工業地帯が広がっていた。戦闘があった場所周辺には「京セラ」の本社が立地。よく見ると、旧小枝橋のたもとのガードレール脇に「鳥羽伏見戦跡」の標柱と案内看板がひっそりと立っていた。地元のタクシー運転手でも分からない人がいるという。

 正月から家追われる

 「10年ほど前に取り壊した昔の家には、柱に鉄砲の弾が食い込んでいた。今も保存してあるよ」。標柱のすぐ脇で代々暮らす巽(たつみ)俊昭さん(70)が歴史を語ってくれた。ちなみに巽さんは京野菜の一つ「万願寺とうがらし」の専門農家で東京などの料亭に出荷している。

 「うちは官軍(薩摩藩)の野戦病院に使われた。家を追い出された先祖が戻ったとき、二つの蔵が荒らされていた」。時は正月。「鴨川の対岸に避難したとき、先祖は正月用の餅を詰めた箱だけを持ち出した。今考えても迷惑な話だよな」。柳沢さんを敷地奥に招き入れ、柱に食い込んでいる直径1センチほどの弾丸を見せてくれた。

 「忘れてはならないのが時代に翻弄(ほんろう)された人々だ。戦争に苦しんだ庶民の存在が今も残っている」。鳥羽と伏見の二つの開戦地を巡った柳沢さん。旧幕府軍の奮戦を想像しながら、自らがテレビ記者としてカンボジア内戦や湾岸戦争を取材したときの庶民の状況が重なった。「旧幕府軍と新政府軍という対立軸に『住民』が抜けていた。これは会津でも言える。150年の節目に新しい視点で歴史を見れば、より身近に感じるだろう」

 柳沢さんが会津藩ゆかりの京都を巡る時間旅行は続く。開戦前、会津藩が天皇を守るため活躍した歴史舞台へと移っていく。

 やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。現在はNHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に出演中。2017年から会津会(東京都)第8代会長。64歳。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。