【維新再考・動乱の舞台】京都編2 蛤御門で役目の集大成

  このエントリーをはてなブックマークに追加 
会津藩が守備していた「蛤御門」の弾痕を見る柳沢さん=京都市・京都御苑

 幕末の動乱の地に歩を進める「維新再考」第2部。「会津会」会長で会津藩士子孫の柳沢秀夫さん(64)=NHK解説主幹=は、戦乱の着火点となった京都南部から都心の京都御所かいわいへと入り、治安維持に尽くした会津藩の姿を追った。

 京都三大祭の一つ「時代祭」は、時代絵巻の行列が平安時代から幕末までの歴史を表現する、京都の秋の風物詩だ。その舞台「平安神宮」(京都市左京区)のすぐ近く、武道センターの一角に名も知れずひっそりたたずむ門がある。柳沢さんは「こんな場所にも会津藩の痕跡が残っているなんて」と興味深そうに見つめた。

 かつて会津藩士が拠点とした「京都守護職屋敷」の門を移築したと伝わる。明治になり、今は武道センターの一施設となった日本最古の演武場「旧武徳殿」(国重要文化財)の正門として利用されていたという。

 幕末は政局混迷で京都の治安が悪化した。1862(文久2)年、幕府は会津藩主松平容保(かたもり)を京都守護職に任命し治安と政治の安定を図る。容保は会津藩兵約1千人を率いて5年超にわたり活動した。京都守護職屋敷は63年、京都御所や二条城に近い地に造営され、現在は京都府庁がその跡地に立つ。

 門に関する説明看板もない。「これじゃあ誰も見向きもしない」とこぼす柳沢さんには、幕末に会津と京都の連絡役を務めた先祖がいた。「この門を先祖や会津の先人がくぐった。なんだか、いとおしく感じるね」と笑顔になった。

 京都の真ん中からやや北、奥深い歴史と豊かな自然に包まれた「京都御苑」を訪ねた。東西700メートル、南北1・3キロの広大な緑地で、市民らが散策を楽しむ。和やかな雰囲気が漂う。しかし、柳沢さんは神妙な表情を浮かべていた。「会津藩が京都に来た意味が凝縮された場所ですからね」

 御苑内には東西250メートル、南北450メートルの築地塀に囲まれた京都御所がある。14世紀から明治に至るまで500年にわたって天皇の住まいだった。現在の建物は江戸後期に建てられたもので、周囲には公家屋敷が約200軒も立ち並んでいた。御所は今、通年で一般公開されている。

 ただし、幕末は御所と公家屋敷の地域(現在の京都御苑)は外部と隔離されていた。出入りの管理のために設けられた門が「禁門」。このうち西辺の烏丸(からすま)通に面した一つが「蛤(はまぐり)御門」で、会津藩の活躍を象徴する存在だ。先の京都守護職屋敷門とは造りも意味合いも大きく違う。柳沢さんは幕末の様子を想像しながら堅牢(けんろう)な門に近づいていった。「まさに幕末にタイムスリップする感覚ですね」

 徳川幕府の権威が失墜した幕末、天皇がいる京都が政治の中心地になった。幕府支持の佐幕派、討幕を進める勤皇派が入り乱れて政治の主導権を激しく争った。京都守護職の松平容保は孝明天皇の信頼を勝ち取り、63年には「八月十八日の政変」を成功させて尊皇攘夷(じょうい)派の過激な公卿や長州藩を都の外に閉め出した。

 義の心貫き朝廷死守

 翌64年の「蛤御門の変」(禁門の変)では、再び都に上った長州藩と蛤御門周辺などで激戦を交わした。長州藩は御所に発砲するなど前代未聞の「朝敵」となり、会津藩がこれを押し返した。「この周辺で会津藩士が長州藩と激戦を交わしたのか」と見渡した柳沢さんは「義のために戦った会津藩にとって、まさに果たすべき役目の集大成だった」と振り返った。

 京都を追われた長州藩が公卿の復権や藩主らの無実を認めてもらおうと約3千人で攻め上り、御所を守る幕府側の会津、桑名、薩摩藩兵などと戦った蛤御門の変。激戦に加え、長州藩が公家屋敷などに立てこもったため火災が発生、周辺に延焼して3日も燃え続ける大火となった。市街地の半分が焼失したという。

 「蛤御門の勝利が長州征討に発展し、戊辰戦争につながる」。柳沢さんは、現在も蛤御門の門柱にいくつも残る弾痕を確認しながら語る。「会津藩が朝廷を死守したことが結果的に自らの首を絞めた」。忠実に役目を果たした会津藩士の思いも分かるからこそ、「会津藩は恨みを買う役目と分かっていながら義の精神を守ろうとしたんだ」と、弾痕に向かってつぶやいた。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。