【維新再考・動乱の舞台】京都編3 異郷に散った会津武士

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在京中に亡くなった会津藩士の墓地を訪ねる柳沢さん=京都市・金戒光明寺

 幕末の動乱の地をたどる「維新再考」第2部。東京などの会津出身者でつくる「会津会」会長で会津藩士子孫の柳沢秀夫さん(64)=NHK解説主幹=は、幕末のひのき舞台である京都市を歩いている。名刹(めいさつ)・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)では会津墓地を訪ね、京都の治安維持に尽力して落命した会津藩士らに思いを重ねた。

 京都の人々に「黒谷(くろだに)さん」と親しみを込めて呼ばれている金戒光明寺は、京都盆地の東、京都市左京区黒谷町にある。平安時代も末期、比叡山で修行を終えた僧法然(浄土宗開祖)が初めて草庵を結んだのが開山の縁起だ。現在は浄土宗大本山の一つとして、江戸時代に建てられた阿弥陀堂や巨大な山門、付随するいくつもの塔頭(たっちゅう)寺院が立ち並ぶ。

 とにかく人が多い京都だが、金戒光明寺の境内は不思議と静寂に包まれている。京都でも指折りの景観スポットとして知られ、緑豊かな境内を進めば、すがすがしい気分になる。「この場所は会津人にとって聖地といえる場所です」と、柳沢さんは緊張感のある表情を浮かべた。

 君臣一致で任果たす

 徳川家と盛衰存亡を共にすべしとの家訓(かきん)もある。決心するよりほかはない」。幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)は、何度も固辞した京都守護職の任をついに拝命する時、こう決意を示した。容保の悲痛極まる言葉に胸打たれた家臣は「君臣もろとも京都を死に場所にしましょう」と応じ、互いに涙した。「君臣一丸の結束力が結果として滅びの始まりとなる」と柳沢さんは歴史を振り返った。

 暗殺や強奪が日常化した幕末の京都。京都守護職に就いた容保は1862(文久2)年12月、藩兵1千人を率いて上洛した。本陣となったのが金戒光明寺だ。京都守護職屋敷が現在の京都府庁の場所に建てられ本陣が移るまで、宿舎となった。御所から東に約2キロと近い。藩兵1千人が駐屯できる約4万坪の広さがあり、市街地を見渡せる小高い丘に城構えの構造という好条件がそろっていた。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。