【維新再考・動乱の舞台】京都編6 兵器に差なく一進一退

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砲弾が突き抜けた妙教寺の壁の穴

 「維新再考」第2部・京都編では最初に戊辰戦争の端緒「鳥羽・伏見の戦い」の地を訪れた。改めて資料を読むと、大軍の旧幕府軍が兵器で劣り一方的に敗れたとする通説に対し、実際は旧幕府軍も最新兵器で善戦したという記述を見つけた。いざ再び、鳥羽・伏見へ。

 伏兵の会津陣地奪還

 戊辰戦争の開戦地、洛南の鳥羽(京都市南部)を歩くと、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村の句が浮かぶ。

 「鳥羽殿へ 五六騎急ぐ 野分(のわき)かな」

 野分(台風)が吹き荒れる中、騎馬武者が鳥羽殿(開戦地近くにあった上皇の離宮)に急ぐ。あくまで平安時代の空想を詠んでいるのだが、風雲急を告げる幕末を予言したかのように情景が重なる。

 「政変を起こし、御所を兵で囲み、江戸で強盗を行った。奸臣(かんしん)(国を傾けた臣下)に誅戮(ちゅうりく)(罪ある者を殺す)を加える」

 新政府の中心にいる薩摩藩を弾劾した「討薩表(とうさつのひょう)」の一文(意訳)で、徳川慶喜(よしのぶ)が起草に関わったとされる。「薩摩藩が諸悪の根源」と朝廷に訴え、薩摩藩の優位性を崩し、慶喜の復活を目指す狙いだった。旧幕府側の激しい怒りがうかがえる。

 旧幕府側は鳥羽と伏見の二手に軍を展開した。慶応4年1月3日(1868年1月27日)、討薩表を朝廷に届ける途中、鳥羽で薩摩藩兵らと通行を巡って押し問答を続け、夕方に"鳥羽殿"近くで戦闘に入った。「京都守護職始末」(元会津藩家老・山川浩著)は「伏見にいた会津藩兵も入京を巡って薩摩藩兵と言い争う中、聞こえてきた砲声を機に戦闘に陥った」と伝える。

 注目は両軍の作戦の違いだ。旧幕府軍は約1万5000人の大軍で威嚇する政治交渉に出た。一方、新政府軍は時間稼ぎをして戦闘準備を進めた。旧幕府軍の桑名藩士の記録は、不意打ちを受けた先頭の自軍の兵について「銃を所持せず装弾もしてない。右往左往し、すぐ死ぬ者が出た」(意訳)と記す。出鼻をくじかれた旧幕府軍は態勢を整え、鳥羽と伏見で戦闘を続けた。

 「旧幕府軍の銃器の水準が劣っていたという説は誤りだ。旧幕府軍の伝習隊(幕府陸軍)は当時最新鋭の元込(もとごめ)銃『シャスポー銃』を使用していた」と語るのは作家・文芸評論家の野口武彦さん(80)=兵庫県、神戸大名誉教授。伝習隊はフランス軍事顧問団から指導を受けた西洋式軍隊で、幕府はシャスポー銃をフランスから購入していた。

 フランス軍事顧問団から指導を受けた西洋式軍隊で、幕府はシャスポー銃をフランスから購入していた。
元込銃は弾薬を銃身の後部、先込(さきごめ)銃は銃口から装填(そうてん)する。先込銃を1発撃つうちに元込銃は7発撃てるほど充填速度が大きく違う。薩摩、長州両藩は先込銃しかなく、軍備の洋式化が遅れた会津藩などを差し引いても「両軍に兵器の差はなかった」という分析だ。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。