【維新再考・動乱の舞台】京都編7 「急造の錦旗」効果は絶大

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戦死した会津藩士・白井五郎太夫の墓を見つめる水島さん=大阪市天王寺区・一心寺

 戊辰戦争の端緒「鳥羽・伏見の戦い」では旧幕府軍にも勝機があったという。では、なぜ敗れたのか。京都を巡ってきた「維新再考」第2部は、急展開の中でクライマックスへと向かう。

 京都―大阪間を結ぶ京阪電鉄・京阪本線の淀駅(京都市伏見区)は、譜代大名の稲葉氏が治めた淀藩10万石の淀城跡にある。水堀や石垣が囲む堅牢(けんろう)な城構えだったが、今は開発されて水堀と石垣がわずかに残るだけ。むしろ近くの京都競馬場の方が知られている。

 諸藩寝返り慶喜逃亡

 戦闘3日目の旧暦慶応4(1868)年1月5日、新政府軍が「錦の御旗」(錦旗)を淀周辺で掲げた。淀城を拠点にしようとした旧幕府軍は淀藩の裏切りで入城できず、6日には津藩の寝返りで総崩れ。錦旗が戦意低下や諸藩の寝返りを引き起こし、戦況は急激に悪化した。淀城跡を歩きながら、旧幕府軍の失意のほどを思った。

 掲げられた錦旗は皇室伝来の品ではない。「岩倉公実記」(多田好問編)によれば、前年の10月6日、岩倉具視(ともみ)が薩摩、長州の両藩士に錦旗の製作を命じた。岩倉のブレーンだった国学者・玉松操が考えた。薩長は京都で材料を買い、長州・山口城(現山口市)近くで作った。つまり急造品だ。

 新政府軍は錦旗の絶大な効力を記録した。作家・文芸評論家の野口武彦さん(80)=神戸大名誉教授=は「誰も見たことがない錦旗を戦場で認識できるのか疑わしい。旧幕府軍側から交戦中に見た記述もない」と指摘。「旧幕府軍で錦旗のうわさが口々に広まり、必要以上に恐怖が高まったのではないか」とみる。

 錦旗に最も衝撃を受けたのは大坂城にいた徳川慶喜(よしのぶ)だ。「朝廷に刃向かう意思はないのに賊名を負って悲しい。会津藩を止められず残念だ」と動揺し悔やんだ(渋沢栄一編著「徳川慶喜公伝」)。後年まとめられた「会津戊辰戦史」(山川健次郎編集)は、慶喜のこの発言について責任転嫁で無責任だと非難している。

 慶喜の言動はとにかく揺れた。5日に「最後の一兵まで戦おう」(「会津戊辰戦史」)と感動的な演説をしたかと思えば、6日に江戸帰還と恭順謹慎を決意。一方で「これよりただちに出馬する。皆用意せよ」(「徳川慶喜公伝」)と指示。出陣準備が進む中、慶喜は会津藩主・松平容保(かたもり)らを従えてひそかに大坂城を抜け出し、軍艦で12日に江戸城へ帰った。終幕はあっけない。

 「進軍ルートを複数に分けたり、新政府軍の背後を突けば旧幕府軍に勝機はあった。大坂城で籠城し新政府軍の補給切れを待っても良かった」と野口さんは分析する。

 勝敗の鍵を握ったのは会津藩士・白井五郎太夫(ごろうだゆう)率いる大砲隊で、戦略や指示の不備で2度勝機を逃したと野口さんはみる。まずは、開戦初日の3日、敵のいない街道を進んで京の目前まで迫ったが、後続部隊が続かず引き返した。戦闘2日目の4日も新政府軍の背後に進撃したが、幕府の指揮官の指示で引き返した。

 「将帥(大将)に人を得ず、命令も統一されず、部隊がそれぞれ行動した」ことが旧幕府軍の敗因ではなかったか。

 白井は5日、旧幕府軍の陣地で「ここを死所として戦うべし」と部下に檄(げき)を飛ばして奮闘したが、銃撃を受けて死んだ(藤沢正啓著「会津藩大砲隊戊辰日記」)。墓は会津藩の大坂の拠点だった「一心寺」(大阪市)にある。大阪府和泉市に住む会津藩士子孫、水島勝寿さん(75)を誘って訪ねた。

 現代的な仁王門と西洋彫刻のような仁王像、遺骨で造られる「お骨仏」が有名な寺で、多くの参拝者でにぎわう。明治期に建立の旧幕府軍戦死者の招魂碑から少し離れた場所に会津藩士の墓約10基があった。

 墓前に手を合わせた水島さんは「慶喜の逃亡さえなければ勝負は分からなかった。負傷兵の治療もできて助かった命もあったのに」とぽつり。先人の苦労を踏まえ「会津藩は賊軍ではないと後世に伝えたい」と使命感を口にした。

 慶喜逃亡後、大坂城は大混乱に陥り、7日から兵の撤退が始まった。会津藩士の多くは紀州(現和歌山県)に逃れ、海路などで帰還した。戦死者は両軍で約400人。内訳は会津藩が約120人と最多で、徳川家約100人、薩摩藩約70人、長州藩約40人だった。

 「朝敵の会津藩戦死者は無残にも放置された」と会津藩の本陣が置かれた金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(京都市)の塔頭(たっちゅう)・西雲院の橋本周現住職(61)。会津藩と関係のあった侠客(きょうかく)「会津小鉄」が恩義に報いようと遺体を集め荼毘(だび)に付し、一部の骨や灰を同寺にある会津墓地に埋葬した。

 会津墓地では毎年6月、「京都會津会」が法要を営む。大竹文夫会長(80)=下郷町出身=は「京都に住む会津人としてしっかりと墓地を守りたい。会津の人々にもぜひ足を運んでほしい」と語った。

 会津には戦況がどう伝わったのか。会津藩士・渋谷源蔵の自伝「夢の栞(しおり)」が詳しい。1月11日に「江戸からの知らせとして開戦」を知る。14日に「三日から昼夜の大戦となり一勝一敗(意訳)」、15日に「七日に徳川慶喜と松平容保が大坂城を出て海路で江戸に帰った(同)」とつづる。会津には1週間ほどの時間差で戦況が伝わっていたことになる。源蔵が知り得た情報であり、重臣はもっと早く知った可能性もある。

 鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍は西国諸藩を従えて、江戸に向かって進軍を始めた。戊辰戦争の幕は切って落とされた。会津藩にとって"最も長い1年"を迎える。

 「第2部 動乱の舞台 京都編」は今回でおわります。3月5日から「第3部 斗南編」を連載します。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。