【維新再考・流転の地】斗南編3 幼子が生きられぬ厳しさ

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旧会津藩士と家族の開拓生活を再現した三沢市・斗南藩記念観光村の展示。質素な板張りの居間で暖を取るため囲炉裏(いろり)を囲んだ

 戊辰戦争の「戦後処理」として、長州・木戸孝允の主導で決まった旧会津藩士による斗南(となみ)藩3万石の設立。その領地、下北半島を中心とする陸奥の地へは1870(明治3)年の春から秋にかけ、旧藩士とその家族ら1万7000余人が続々と移り住んだ。しかし、本州北辺の地では、筆舌に尽くしがたい厳しさが待っていた。作家・星亮一さんが語る「斗南編」の第3回は、会津人たちの苦闘の記録をたどる。

 1870年の春から秋。斗南に到着した旧会津藩士と家族の足取りなどについては、当事者たちが記録を残している。

 なかでも、荒川類(るい)右衛門(えもん)という人物の「明治日誌」からは、移住した家族たちの姿が、克明に浮かび上がってくる。

 類右衛門は代々、会津藩重臣北原采女の家中で、家禄130石の中級武士。会津の籠城戦では、主人采女とともに入城し、主君松平容保(かたもり)の警護に当たった。1832(天保3)年8月、会津若松の生まれというから、斗南移住当時は37歳だった。

 家族は、類右衛門と6歳下の妻ミヨ、59歳の母、それに3男2女の計8人。子どもたちは、一番上の長女が13歳、最も幼い三男は3歳だった。

 戊辰戦争後、収容されていた上越高田(新潟県)で、斗南での藩再興の知らせを受けた類右衛門は、幼い子と年老いた母を抱え、前途多難が予想されたが、陸奥の地で家族そろって生活できると喜んだ。

 荒川家は、斗南移住が始まった1870年4月の2カ月後、新潟からの移住船第3便で下北へ向かった。公式記録では、この時の乗客数は1692人。同年6月19日、蒸気船に乗り、21日朝、下北半島南端の野辺地(現青森県野辺地町、以下かっこ内の地名はすべて同県)に上陸した。

 移住者の多くは、まず野辺地など集落がある地域で、民家などに分宿して待機し、藩が割り当てた移住地にそれぞれ赴いた。

 荒川家も、野辺地に半月ほど滞在した後、田名部(現むつ市田名部)の在に割り振りを受け出発。田名部に設けられた藩の役所で支給米を受け取り、田屋村(現東通村)で民家に間借りした。

 食糧や住宅課題山積

 類右衛門は、一家で開拓し自活するつもりだった。しかし現実は過酷だった。米はまったく取れない土地で、主食はヒエ。食糧は乏しく、干した昆布を臼でひき、ヒエと一緒に煮込んだ「オシメ」という一種の雑炊が、この土地では主に食べられていた。
 移住者には、藩から1日当たり大人1人4合(後に3合)、子ども1人2合の玄米などが支給された。ただ、これで農作物の収穫まで、衣食住のすべてをまかなわねばならない。荒川家では同年11月、3歳の三男乙三郎が栄養失調で亡くなった。妻は袖をかきむしって号泣した。

 斗南藩は石高3万石だが、実際の収入は7000石余だった。夏に吹く「やませ」と呼ばれる冷たく湿った東寄りの風の影響で、気候は冷涼。火山灰地が広がる下北など総じて土地は痩せ、稲作には適さない。地図のように、藩領が下北と三戸・五戸の2地域に分かれているのは、政府によって比較的豊かな地域が領地から外されたとみられる。

 《編注・会津と下北の年平均気温は若松11.7度に対し、むつ9.5度。8月の平均は若松が25.0度、むつが21.7度》

 ただ、厳しい風土ではあるが、古くから人々は、さまざまな知恵を組み合わせ生きてきた。海と山に恵まれた下北では、漁業や林業、馬産が組み合わさり生活が支えられてきたといわれる。

 旧会津藩の首脳は、この土地柄を分析する余裕もなく、政府の厳命で飛び込んでいかざるを得なかった。問題はここにあった。

 ともかく移住開始直後から、このままでは餓死者が出る、開発も無理という状況だった。

 同年4月、五戸の代官所跡に置かれた斗南藩庁(翌71年2月に田名部移転)では、まず米、さらに住宅や農機具の確保など、山積する課題に、藩のリーダーたちが苦悩していた。

 斗南藩の最高幹部は、会津戦争で軍事総督を務めた山川浩(元・大蔵)と、元公用方の広沢安任、奥羽越列藩同盟の結成に奔走した永岡久茂の3人。山川がトップの権大参事、広沢と永岡が権少参事に就いた。年功重視の会津藩時代とは打って変わり、20~30代の実力者たちだ。

 彼らは同年7月、先に受けた支援だけでは移住者の生活が成り立たない―として、哀願するような資金援助の陳情書を政府に提出した。

 すでに受け取った17万両は移住費に大半を使い果たし、農具代や病人の手当て、住居費などで借金は膨らむ一方だった。

 ただ、住宅建設や開墾の諸費用は不可欠。この夏、田名部郊外の丘陵地・妙見平では、斗南定住策の第1弾として、草ぶきの掘っ立て小屋ではあるが、100棟を超す住宅の建設が進められ「斗南ケ丘」と名付けられた。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。