【維新再考・流転の地】斗南編7 洋式牧場が希望の星に

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広沢安任が開いた牧場をイメージし、道の駅みさわ・斗南藩記念観光村に設置された馬のブロンズ像。同施設も牧場跡地の一部にある

 1870年代、明治の激流は、旧会津藩士のよりどころとなるはずだった斗南(となみ)藩を消し去った後も、とどまることなく多くの人々をのみこんでいった。山川浩たち旧斗南藩首脳陣は「滅藩」の責任を背負うように、ある者は死地へと突き進み、ある者は北辺の地で根を張る未来を信じた。作家・星亮一さんによる斗南編の最終回は、明治という時代を象徴する会津人の選択を語る。

 広沢根張り生き抜く

 斗南藩の3人の首脳、権大参事の山川浩、権少参事の永岡久茂と広沢安任(やすとう)の「滅藩」後の人生は、近代化へ激変する時代の会津人の光と影を象徴するものだった。そして一人一人形は違えど、会津藩再興を果たせなかったことへの、けじめを付けるものだった。

 戊辰戦争と斗南流罪。当時、薩長のやり方に対する会津人の恨みは骨髄に達しており、この恨みを晴らすには、藩閥政治を打倒するしかないと考える人が出てきても不思議ではなかった。

 誰かが実行しなければ、収まりがつかない雰囲気の中で、怨念を一身に買って出たのが永岡だった。

 東京へ出た永岡は「評論新聞」を発刊し、政府攻撃を展開。さらに、政府批判の強硬論者だった元長州藩士前原一誠と手を組み、政府転覆の計画を練っていった。

 時代の変化についていけない不平士族の反乱が各地で続発していた。前原も1876(明治9)年10月、故郷山口県で「萩の乱」を起こした。これに呼応し蜂起を計画したのが、永岡たち元会津藩士のグループだった。

 永岡の計画は千葉県庁を襲い佐倉鎮台の兵を味方に引き入れ、日光から会津に入り、萩の前原とともに政府を転覆するというもの。

 しかし計画は失敗に終わった。

 前原蜂起の報を受けた永岡たちは同年10月29日夜、東京・日本橋小網町の思案橋から舟で千葉へ向かおうとして警官と格闘となった。世に言う思案橋事件である。

 永岡は、仲間に誤って斬られ捕縛。その傷がもとで翌77年2月獄死した。享年38歳だった。

 上京した山川も当初、反政府運動に傾斜した。

 浅草区の山川の元には、元藩士の子弟らが何人も居候をしていたが、山川は無職。当然、満足な食事はできなかった。

 会津の若者は勉学の場も奪われ路頭に迷っている。青森県に残る旧斗南藩の人々をも見殺しにするのか。山川は改めて会津人を流罪にした為政者らに激しい怒りを覚えた。彼が鹿児島へ赴き、薩摩の反体制派と接近を図ったという事実もある。

 そんな山川に、土佐藩出身の陸軍大佐谷干城(たてき)が軍への任官を勧めた。

 谷は戊辰戦争の時、日光口で、山川が副総督とする会津軍と戦った新政府軍の司令官で、山川の戦いぶりと、捕虜から聞いた彼の信望の厚さが脳裏にあった。

 会津にはひもじい若者が大勢いる。彼らも救わなければならない。そのためには新政府の中枢に入ることが一つの手段ではないか。会津のためには、谷の勧めを受けるしかないと、山川は決断した。

 陸軍での山川は、実力は周囲も認めるところだったが、長州が握る中枢部へは進めず、大佐どまりだった。しかし、軍人の身分のまま東京高等師範学校などの校長に転身。会津人の子弟をはじめ新しい世代の育成に熱意を注いだ。

 彼が晩年、全力投球したのが会津戦争の記録「会津戊辰戦史」の編さんと、京都時代の会津藩の動きを記した「京都守護職始末」の執筆だった。山川は、会津藩が着せられた朝敵の汚名をそそぐ両書の刊行を前に病没したが、その悲願は弟健次郎の手で果たされた。

 最後の一人、広沢は、陸奥にとどまる道を選んだ。そして、会津人がこの地で生き残る道を牧畜に見いだした。

 南部藩は全国有数の馬産地。彼は、その中の三沢(現三沢市)の地にひかれた。同藩の「木崎の牧」の一部で、広漠たる原野が連なっていた。八戸藩大参事を務めた太田広城とともに、2300ヘクタールを超える土地を青森県から無償借用すると1872(明治5)年、運営母体開牧社を設立。内務卿大久保利通らの協力を得て、日本初の洋式牧場の建設を進めた。

 雇い入れた英国人牧夫2人の指導の下、さまざまな施設が整備され、初年は牛180余頭をはじめ馬や豚を購入。牛肉やバター、チーズを東京、横浜へ販売した。

 そして開牧5年目を迎えた76年、東北御巡幸の明治天皇を迎えた。天覧は7月12日、三本木原の草原で行われ、広沢は天皇の前へ進み、開牧社の状況を説明。帝(みかど)は終始うなずいて聞かれた。広沢たちの牧場が、斗南に残った会津人700余世帯の希望の星となったことを伝える挿話である。

 その5年後の81年、南部出身の25歳の新聞記者が、広沢牧場を訪れた。そして、「奥羽人は常に事業を成す気力に乏しい」と言われるが、広沢牧場の成功例は近来著明なもの、東北の誇りだとリポートした(「海内周遊日記」)。記者は、その後、政治家となり、平民として、また東北人として初の内閣総理大臣に就いた原敬だった。

 北辺の地に根を張り、苦労の末、花を咲かせた会津人の底力。それは、若い東北人の胸を打ち、次代へと引き継がれたのである。

 =第3部おわり=
 5月14日付から第4部「白河編」が始まります。「維新再考」は毎週月曜日に掲載します。

 連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。