【維新再考・100日間の攻防】白河編1 戦火ついに白河へ

  このエントリーをはてなブックマークに追加 
奥州街道沿い、境の明神に建立されている白河領を示す石柱を眺める柳沢さん。白河口の戦い直前、会津藩兵によって会津領を示す木柱も立てられた=白河市白坂

 戊辰戦争から150年の節目に、本県や東北の視点から明治維新を問い直す大型連載「維新再考」は第4部・白河編に入る。戦争の勝敗を決定づけたといわれる最大の激戦「白河口の戦い」は、歴史に何を残したのか。在京の会津出身者らで組織する「会津会」会長でNHK解説主幹の柳沢秀夫さん(64)=会津若松市出身=を再び旅の同行者に迎え、東北の玄関口で戦火の跡を訪ねる。

 柳沢秀夫さんと歩く

 「会津人は、会津戦争が始まる母成峠(郡山市、猪苗代町)や戸ノ口(猪苗代湖畔)から語り始めるので...」

 平年より早い桜の季節が終わりを告げようとする頃、白河市周辺を訪ねた柳沢さんは、苦笑しながら、そう話した。

 本連載への登場は京都以来2度目となる柳沢さん。白河に到着し開口一番「これまで見過ごしてきた『白河口の戦い』を知る旅にしたい」と意気込んだ。何度も訪れている白河ではあるが、これまで、その歴史を深く知る機会がなかったと言うのだ。

 白河は、奥州の三大関所の一つで、古代から歌枕に詠まれた「白河の関」があったといわれる東北地方の入り口。俳聖松尾芭蕉も「おくのほそ道」で、この境界を越える時の特別な心情を記した。

 芭蕉の旅から約180年後の慶応4(1868)年、江戸時代が終わりを告げた。奥州の入り口として交通、軍事の重要拠点だった白河が舞台となった「白河口の戦い」は、旧幕府軍と新政府軍が、白河小峰城の攻防戦を約100日間断続的に続け、両軍合わせ千人以上が戦死。多くの犠牲者を出した旧幕府軍が大敗している。

 その激戦の地で、柳沢さんがまず向かったのは、奥州街道の国境、現在は福島・栃木県境の「境の明神」。攻め寄せる新政府軍も通った道だ。近くに「従是北(これよりきた)白川領」と刻まれた石柱が立つ。

 柳沢さんは「東北の戦火はここから始まった。白河の歴史を知りたい」と厳しい表情で見つめた。みちのくの玄関口はいつの時代も心を揺さぶる。

 宿場住民の暮らし一変 生きるため立場分断

 「白河口の戦い」では旧暦の慶応4(1868)年閏(うるう)4月25日、会津藩はじめ東北諸藩による奥羽列藩同盟軍、旧幕府勢力が小峰城周辺で、北上してきた新政府軍と本格的に戦闘を始めた。

 国境にある「境の明神」は、自国を守り外敵を防ぐと信仰を集めていた。閏4月21日、会津藩兵が境の明神に出向き「従是北白川領」の石柱を倒し、「従是先会津領」と書いた木柱を立てた(白坂村郷土誌)。新政府軍への対抗心からか、会津を守る気概を示したかったのか。

 柳沢さんは当時の面影を残す神社を参拝し「国境で新政府軍の侵攻を食い止め、戦いを避ける道はなかったか。そうすれば後の悲劇は起きなかった」と思案した。

 会津藩では鳥羽・伏見の戦い後、前藩主の松平容保(かたもり)が恭順の意思を示し続けたが、新政府は許さず容保の首を求めた。柳沢さんは「新政府は会津がいくら謝罪しても認めなかった」と悔しがり「行き詰まった会津藩の大きな分岐点がこの白河だ」と力を込めた。

 奥州街道で本県入りすると一番最初、つまり境の明神に最も近い宿場が「白坂宿」である。1676年に白河城主から宿場開設の命があり、2年かけて整備された。屋敷数は約80軒で、宿屋に料理屋、商店が立ち並びにぎわった。この集落でかつて商店「桝屋」を営んでいた家の青柳幸治さん(73)の元を訪ねた。

 「白坂宿の歴史を後世に残すため活動している」と青柳さん。江戸時代から残る家は約30戸となり痕跡が消えることに危機感を抱き、自ら実行委員長となって白坂宿の歴史を紹介するパンフレットを作ったり、今年3月には宿場北側の観音寺近くに顕彰碑を建てた。

 白坂宿では開戦直前の閏4月24日に事件が起きた。栃木方面から攻め寄せた新政府軍は、本陣・白坂家の当主を宿場の入り口で見せしめのように斬殺、住民は驚いて周辺の山々に逃げている。5月にも境の明神近くにあった豊神寺の住職と会津藩の密偵を斬殺し、一方で新政府軍の兵士も銃撃されて落命している。

 青柳さんは「当初は新政府軍を恐れただろうが、後に新政府軍の基地のような役割を担っていった」と白坂宿の複雑な立場を説明した。

 さらに興味深い史料と言って見せてくれたのが、銃弾3発の痕が残る戸板だ。青柳さんが別の家に残されていたものを20年前に譲り受けて保管してきた。元々は屋内の板間と座敷を隔てる4枚戸の1枚。「住民が避難した時、家に入り込んだ薩摩藩兵が撃ったと伝わる。試し撃ちか脅しか分からない。後にその家の人は穴に紙を貼って使っていた」。柳沢さんは「想像が膨らむなぁ」と弾痕を見つめた。

 そんな宿場の住民たちには、旧幕府側に付く者、新政府軍に協力する者が入り交じっていたという。

 「生活を乱された住民は、戊辰戦争をどう感じていたのだろう」と柳沢さん。すると青柳さんは「きっと戦争自体迷惑に思っていたでしょう。でも生きるためには何でもしなければならなかった」と先祖たちの心情を代弁した。

 白坂宿では今、兵士の弔いを分け隔てなく続けている。柳沢さんは「会津藩を中心に歴史をみるだけでは凝り固まってしまう。私にとって空白だった白河の歴史を知ることで、戊辰戦争の歴史を改めてかみしめていきたい」と語った。