【維新再考・浜通り編(上)】 海から現れ港を占領、新政府軍綿密な計画

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新政府軍による港の攻略について説明する夏井さん。奥に見えるのが、中之作の港を目指し新政府軍の部隊が越えて来た勝見ケ浦の岩山=いわき市・中之作港

 白河口の戦いが泥沼化していた1868(慶応4)年6月。東北での戊辰戦争は新局面に突入した。新政府軍が新ルートでの進攻を開始したのだ。「維新再考」第5部は、太平洋岸の東北の入り口、浜通りを舞台に、海から現れ北上する新政府軍と、対する奥羽越列藩同盟軍との激戦をたどる。第1回は、海辺の戦地を訪れ、近年研究が進むいわきの戊辰戦争について、いわき地域学會副代表幹事の夏井芳徳さん(58)に聞いた。(日付は旧暦)

 「いわきの戊辰戦争は、海と陸とで戦われた。県内では他に例がない」。夏井さんは、そう説明する。言葉通り戦争は、まさに海で始まった。

 夏井さんが編んだ「いわきの戊辰戦争」から引用すると、68年6月16日午前10時ごろ、新政府軍の軍艦(蒸気船)3艘(そう)が平潟(現茨城県北茨城市。現福島県境から100メートルほど南)の沖合に姿を現した。

 平潟の港では、奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩の兵士が警備していた。ただ、戦闘は、すぐには起きなかった。

 まず、軍艦から小舟で港に着いた新政府軍の4人が、水や薪(まき)の補給許可を求めた。補給は口実で、4人は強引に上陸すると、住民らに小舟を軍艦まで出すよう要請。渋る住民らと押し問答が続いた。そのうち騒ぎが大きくなり仙台兵も集まり始めたため、新政府軍は上陸強行を決断した。

 しかし、その時、陸からは多くの小舟が、沖合の軍艦へ向けこぎ出していた。平潟の人々が、新政府軍の兵を乗せ上陸させるため出した小舟だった。これを見た仙台藩の部隊は、平潟からすぐさま撤退。新政府軍側は戦火を交えず薩摩(鹿児島県)、大村(長崎県)、佐土原(宮崎県)各藩の部隊の揚陸に成功した。

 協力を渋った住民らが小舟を出したことについて、夏井さんは「平潟は新政府側に付いた川越藩(埼玉県)の領地。上陸作戦を行う前、新政府軍と同藩はひそかに綿密な計画を立てていた」との説を紹介し「港で騒ぎを起こし、仙台藩の守りが手薄になった隙を見計らい、小舟が一斉に軍艦に向かい兵隊たちを上陸させるという計画だったのだろう」と話す。

 では、なぜ新政府軍は、ここまで綿密な計画を立てたのか。

 夏井さんは補給拠点としての港の重要性を指摘する。「平潟は当時、周辺で採掘された石炭の積み出し港。軍艦(蒸気船)の燃料がある。そして江戸・品川から、陸路なら5日かかるところ、蒸気船なら2日の距離。この港を占領すれば、敵の海上輸送路を封鎖できる上、自軍は大量の兵員と弾薬、食糧を短時間で送り込める」

 港を巡っては、その後、中之作(いわき市)でも激戦が展開された。

 「補給断て」中之作惨劇、新史料で状況克明に

 いわき市生まれの夏井芳徳さんは今「いわきの戊辰戦争」に続き郷土で起きたこの戦争に関する本の執筆を進めている。戊辰戦争研究に引き付けられる理由を聞くと「調べるうちに150年前の人々の顔が見え、その時の気持ちが分かってくる」と言う。

 確かに「いわきの戊辰戦争」では生々しい人間の姿が記されている。例えば、泉藩(いわき市)の裏切りを疑う仙台藩士と、仲間を疑っては戦えないと怒る遊撃隊の旧幕臣との確執。九面(ここづら)の戦いの敗因についても仙台藩と遊撃隊の言い分は真逆で、互いに相手の敗走を言い募る。新政府軍側も大砲を積んだ敵軍艦の恐怖が頭を離れない。

 夏井さんによれば、いわきの戊辰戦争研究は長く「御蔵入り」していた。「いわきの磐城平、湯長谷、泉3藩は同盟軍。同時に市内の神谷には、新政府側に付いた笠間藩(茨城県)の領地(3万2千石)があり敵対した。1藩だけの会津と違い、住民同士で『勝った』『負けた』とは言いづらかっただろう」

 しかし5年前、画期的な本が出た。当時の平藩士16人が残した戊辰戦争に関する覚書を「いわき歴史文化研究会」がまとめ、藩士の子孫でつくる「平安会」が出版した「磐城平藩戊辰實戦記」だ。藩士らの体験が記録され、戦闘の状況も克明に記されていた。

 夏井さんは、この新史料と「薩藩出軍戦状」など新政府軍側の兵士たちの記録とを突き合わせてみた。すると「パズルのピースが合わさるように、それまでよく分からなかった状況が、きれいに整った物語のように浮かび上がってきた」。特徴的なのが地元史料の地名の正確さと、時計を持っていた新政府軍側の時刻の詳細さ。二つ合わせると、戦場の細部が「復元」された。そして歴史をきめ細かく正確に書き残した先人の誠実さに感銘したと夏井さんは話す。

 海辺の戦いも、複数の史料から見えてきた部分があると夏井さんは言う。「中之作港では、史料によって仙台藩の軍艦の数が違う。誤りだと思っていたが、新政府軍の最初の兵が到着してから、最後尾が到着するまで時間がかかった。現場に着いた時間で数が変わったと考えられる」

 この中之作が、惨劇の舞台になった。

 6月29日早朝、藤原川と矢田川が合流する南富岡の二ツ橋で激しい戦闘が始まった。前日中之作から大部隊が上陸し小名浜方面に展開していた仙台兵などと、泉城占領に成功した新政府軍との衝突だ。戦闘は、二ツ橋西側の富士山と呼ばれる丘に大砲を据えた新政府軍が、砲撃で同盟軍を圧倒。逃げる仙台兵らを追い、小名浜の西町まで進攻した。

 さらに新政府軍は同日午後、中之作港を攻めた。

 同港は、底が深い天然の良港。湯長谷藩領で採掘された石炭の積み出し港でもあり、戊辰戦争時は仙台藩の上陸拠点、同盟軍側の補給拠点になっていた。

 この拠点を制圧し敵の補給を断ちたい新政府軍は、港の南西にある勝見ケ浦の岩山などを越え港に侵入。とどまっていた仙台藩の船1艘(そう)を襲い、海へ飛び込んだ兵や乗員を船上から射殺していった。南富岡から中之作までの戦闘では、仙台兵73人を含め多数が命を落としたといわれている。

 勝見ケ浦の岩山には現在も、その斜面に民家が立ち並ぶ。その集落の共同墓地の奥まった場所に、小さな塚があった。「ここは旅乱婆(たびらんば)と呼ばれ流れ着いた身元不明の遺体を弔った場所。塚は『ひめ塚』と呼ばれ150年前、岸に打ち上げられた仙台藩士かこぎ手か10人ほどの遺体を村人が葬り供養したと伝えられている」と夏井さん。供養は、政府の目を恐れてか極秘で一部の村人に引き継がれた。それで「秘め塚」の名が付いたのではないかという。

 夏井さんは「実は戦争の歴史調査はやりたくなかった。今も調べると、戦いの場面で血が騒ぐことがある。しかし、戦争がしたくて歴史を学ぶのではない。戦争はしてはいけない。それを心に刻むためにも、犠牲者や供養した人々を調べる。それが『歴史に学ぶ』手だての一つだろう」と言う。

 泉、湯長谷 次々と落城

 1868年6月16日、平潟に上陸した新政府軍と、旧幕府軍(遊撃隊、純義隊)を含む奥羽越列藩同盟軍(仙台、磐城平、泉、湯長谷、相馬、米沢各藩)との、いわきでの攻防戦は約1カ月続いた。上陸した新政府軍が泉と湯長谷の城を攻略、最後に磐城平城を総攻撃するという構図だ。

 11日後の同28日、後続の柳川、備前両藩の部隊と合流した新政府軍は、平潟から北上すると植田で二手に分かれ、一方が藩士らが退去し無人だった泉城を占領。別の部隊は新田坂で激戦になるが、泉城の部隊と挟撃し勝利した。一方、同盟軍は同日、仙台藩の軍艦が中之作の港に着き約460人の大部隊を揚陸。同部隊は小名浜方面へ移動した。

 同29日は、小名浜、湯長谷の2方面で激戦になった。泉城と小名浜の港との中間にある南富岡・二ツ橋の戦いでは、新政府軍と、仙台藩の軍艦とで砲撃が交わされたが、新政府軍が優勢となり小名浜、中之作まで進攻。一方、泉城から陸前浜街道を北上した新政府軍の部隊は昼前に湯長谷城を攻略し磐城平城の手前、内郷小島町・満蔵寺辺りまで進軍。松ケ岡公園などの辺りに大砲を据えた同盟軍と長橋を挟み撃ち合いになった(第1次磐城平城攻撃)。

 敗戦続きだった同盟軍だが、平城の守りは堅く翌7月1日、再び攻撃に出た新政府軍を米沢藩士の活躍などで撃退。平城攻防の決着は約2週間後の同13日、新政府軍の第3次攻撃まで持ち越された。

 夏井 芳徳(なつい・よしのり) 1959(昭和34)年、いわき市生まれ。京都大文学部卒。いわき地域学會のメンバーとして郷土史研究をはじめ幅広い分野で活動。2014(平成26)年、県文学賞(小説・ドラマ部門)正賞受賞。いわき明星大客員教授、いわき地域学會副代表幹事。著作に「ぢゃんがらの国」「いわき語の海へ」「いわき学講座(1)」ほか。