「まさかこれほどの人骨が...」 歴史ロマン!灰塚山古墳から出土

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箱式石棺内部。石棺は複数の板石が組み合わされており、内部の全壁面が朱色に塗られ、副葬品として大刀(点線部分)などがあった

 「まさかこれほどの人骨が出土するとは」。大量の鉄製品が出土し研究者や歴史ファンが注目する喜多方市の古墳時代中期(5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」。昨年、関係者は豊富な副葬品に驚き、歴史ロマンに魅了された。そして始まった未調査の石棺内部の発掘。1600年の時を超えて石棺のふたを開けると、全身の骨を多く残した豪族が姿を現した。

 「上あごと下あごに歯が数本残っている。めったに見られないほど良い状態だ」。発掘の総指揮を執る東北学院大(仙台市)の辻秀人教授は驚く。古墳の被葬者は土の酸で骨が溶けてなくなるケースがほとんどだが、灰塚山古墳は違った。板石を二重に組む石棺の周囲や隙間を粘土で固めた厳重さが空間を保ち、土の影響が少なかったとみられる。

 辻氏によると、骨や歯の状態から老齢で亡くなったとみられ、背骨の状態から腰痛持ちだった可能性もあるという。同大の中間報告によると、人骨発掘に精通した新潟医療福祉大(新潟市)の奈良貴史教授が調査しており、今後さらに詳しい鑑定を行っていく。

 5世紀の会津は「古墳の断絶」といわれるほど古墳の築造が減る。三角縁神獣鏡が出土した「会津大塚山古墳」(会津若松市)など大和王権と関係が深い古墳が造られた古墳時代前期(3~4世紀)と差があり、大和王権が会津への政策を転換したとみられてきた。

 灰塚山古墳近くには東日本最大級の豪族の住居とされる国指定史跡「古屋敷遺跡」がある。辻氏は時期の合致から「古屋敷遺跡に拠点を置いた豪族が灰塚山古墳に埋葬された」とみる。人骨の詳細調査によって大和王権との関連性など新たな知見が得られる可能性が高い。復顔やDNA分析に期待がかかる。