二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、身分区別なく慰霊

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発見された二本松藩戦死者の霊牌。上級武士の「丹羽舎人」(左)と農民の「傳作」の名が記されている。奧はたくさんの霊牌が納められた御霊舎

 二本松藩丹羽家の居城だった霞ケ城公園(二本松市)の丹羽霊祠(れいし)殿(通称・丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約100年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。霊牌は全て同じ形で約80柱あり、戊辰50年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。

 霊牌には武士や農兵の名前が記され、二本松市の担当者は「当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、等しく慰霊した。戊辰150年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料だ」とした。

 市によると、丹羽霊祠殿は戦時中に東京の丹羽家から現在の社殿に移った。丹羽家所有だったが昨年、市に寄贈された。

 市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。5段の棚に並べられ、数点が木箱に入ったまま見つかった。木箱表面には「戊辰殉難士五十年祭」と記されていた。

 霊牌の概要や保管経緯は不明だが、市の所蔵史料に同じ霊牌がある。「戊辰50年の慰霊祭でもらった」という二本松藩士の子孫から寄贈されたといわれている。

 約100年前に発行された「二本松藩史」では二本松藩戦死者は338人(現在は337人)で、内訳は藩士162人、下級兵と農兵ら176人。戊辰50年の慰霊祭で全員分を用意したが、4分の1程度が遺族の手に渡らず保管されていたとみられる。

 同藩史によると、霊牌に書かれていた名前の一人「丹羽舎人」は上級武士で、戊辰戦争では大目付軍監として白河口の戦いに出陣。旧暦の1868(慶応4)年6月12日に白河・追原方面での銃撃戦で戦死した。

 一方、他の一人の「傳作」(伝作)は下水原村(現・福島市南部)の農民。農兵か運輸方を担い、霞ケ城が落城する旧暦の7月29日に城下で戦死している。

 二本松市都市計画課二本松城跡整備係の佐藤真由美さん(48)は「農兵は武士とは違う扱いが一般的だっただけに、貴重な史料だと思う」とした。二本松藩主丹羽家の18代当主の丹羽長聰さん(74)=東京都=は霊牌が保管されていたことを知らなかったとし「戦死者を等しく慰霊した先人の行いが素晴らしい」とたたえた。