原発事故...残る『緊迫感』 記者ルポ、大熊・オフサイトセンター

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当時の緊迫したやりとりがうかがえるボードとテレビ会議場

 東京電力福島第1原発事故直後、事故対応の最前線基地となった大熊町の県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)が解体される。福島民友新聞社は今月、事故後の放射線量の上昇などに伴い、実質4日間で移転を余儀なくされた同センターを取材した。帰還困難区域の住宅街にひっそりとたたずむ外観とは裏腹に、館内には事故当時の資料が残り、7年半を迎えても緊迫感がよみがえる。

 「懐中電灯を使ってください」。太陽が照り付ける午後0時30分。県担当者と入った館内は電気や水が止まり、日中とは思えないほど薄暗い。移転後にできたとみられる天井の崩落が数カ所確認されたが、大きな損傷はなく、頑丈な建物だということが分かる。

 入り口の横には除染の場として活用された「シャワー室」があり、全面マスクや作業着が入った透明袋が山積みだった。保安検査官事務所がある1階の倉庫には透明袋に大量の空のペットボトル。当時の備蓄食料は少なく、対応に当たった約140人の食料は水とレトルトカレーが中心だった。

 毎時1870マイクロシーベルトの屋外

 「3月14日(月) 1F3 水素爆発直後(11:37) MP6付近 毎時50マイクロシーベルト程度」。政府が現地対策本部を設置した2階フロアには、3号機の水素爆発に関する情報がホワイトボードに残る。対策本部が設置されたのは2011(平成23)年3月11~15日。ホワイトボードは複数箇所に点在し、第1原発の様子や避難の状況が記され、放射線量の上昇など刻々と事態が悪化した状況を物語る。

 大画面のテレビは通信エラーでテレビ会議システムとして使えなかった。大部分の電話も使えず、連絡手段は主に衛星携帯電話。県担当者は「限られた通信手段の中で、オフサイトセンターと政府との情報連絡がうまくいかなかった」と振り返る。第1原発から半径10キロ圏内を示す地図もあちこちにあるが、避難指示はさらに拡大し、当時の想定をはるかに上回った。撤退した3月15日の午前10時すぎ、館内の放射線量は毎時15マイクロシーベルト、屋外は毎時1870マイクロシーベルトに達していた。

 記憶を後世に残す

 同センターの屋上からは大熊町中心部を一望できる。同センターは20年に解体される予定で、周辺は特定復興再生拠点区域(復興拠点)となる。住宅は損壊し、道路もでこぼこのままだが、近くでは重機の機械音が響き、復興の歩みは着実に前に進みだしている。

 取材終了後、同センターに職員研修で訪れた国の関係者と遭遇した。ホワイトボードなどの備品は双葉町に整備するアーカイブ施設(震災記録施設)に展示されるが、同センターに入らなければ伝わってこない事故当時の混乱や緊迫感もある。事故の教訓を忘れず、オフサイトセンターが二度と使用されるような原発事故を起こしてはならない、この誓いを胸に刻むため、解体前に同センターから学ぶべきことは多い。