「核兵器と人類共存できない」 広島証言、次世代へ被爆の記憶

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被爆者証言ビデオの収録に臨む星埜さん(左)

 「これからも自分の体験を話したい」。太平洋戦争当時、広島の原爆投下直後の状況を目の当たりにした元福島大学長の星埜惇さん(90)は18日、福島市の自宅で広島平和文化センター(広島市)の被爆者証言ビデオの収録に臨んだ。原爆投下から73年。被爆者が次々と鬼籍に入り、被爆体験を次世代にどう伝えるかが課題となる中、星埜さんは自らの体験を丹念に語った。

 福島大勤務を機に60年以上、本県で暮らしている星埜さん。この間、休眠状態だった県原爆被害者協議会を再建し、高校などで被爆体験を語る活動を続けている。収録が行われたのは星埜さんの自宅の一室。星埜さんはスタッフに促され、ゆっくりと話し始めた。

 「原爆投下は呉の実家に帰る途中だった」。1945(昭和20)年夏、旧制広島高(広島市)1年生の17歳だった。8月6日は列車で広島市を離れ、食料調達のため実家に向かっていた。「車窓から薄黒いピンク色のきのこ雲が見えた」。夜、鉄道と徒歩で爆心地から少し離れた寮に戻った。

 寮の窓ガラスは割れたが建物の被害は少なかった。友人が行方不明になっており、翌7日朝から街に入り、手分けして捜した。街は廃虚、川は遺体で埋め尽くされていた。横たわる人に足をつかまれて「水、水」とせがまれた。

 「友人2人は生きたまま発見できたが、1人はすぐに死に、もう1人も数日後に息絶えた。まぶたや唇は熱風と火で炭化し、手足は焼けただれ、息があるのにうじが湧いていた」。今でも死にゆく友人の姿を語るたび、強い憤りが湧いてくる。「核兵器と人類は共存できない」

 収録は約1時間30分。資料を見ることもなく当時の様子を語った。「とにかく若い人に知ってもらいたいのが一番」と星埜さん。「原爆と原発事故を混同してはいけない。それでも(福島に暮らしていると)原発事故後の福島への差別的な見方が、かつて広島へ向けられた偏見と重なる」。収録を終えてもカメラから記者に向きを変えて語り続けた。原爆を知る世代の使命感がずしんと来た。

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