倉本聰さん...富岡・夜の森の桜と再会 住民帰還待つ『原風景』

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静寂の中、スケッチブックに桜の木々を描く倉本さん=富岡町夜の森地区

 「人間が最後に帰る場所は古里の原風景。その原風景が崩れ、帰る場所がなくなってしまったのではないか」。脚本家の倉本聰さん(84)は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故後、古里からの避難を強いられ、今なお避難生活を続ける住民の気持ちを推し量った。

 倉本さんは2011(平成23)年11月から本県を何度も訪れ、地震と津波と原発事故、それに続く風評被害と、幾重の困難と向き合う被災地・福島を見つめてきた。

 被災者との交流など県民に思いを寄せてきた倉本さんが震災から丸8年となった福島を歩いた。17年9月以来、約1年半ぶりに訪れた帰還困難区域の富岡町夜の森地区では、住民の帰りを待つかのようにたたずむ桜の木々と再会した。かつて「人が戻らぬこの街を、どう見ているのか」と問い掛けた桜の木々だ。倉本さんは「(住民の帰りを)それでも待っているんだよ」と古木のコケに優しく触れた。

 富岡町は17年4月に居住制限と避難指示解除準備の両区域の避難指示が解除された。しかし夜の森地区の一部は帰還困難区域のまま、人の立ち入りは制限されている。「桜のトンネル」として町民に愛された2.4キロの区間には約400本の桜が植えられているが、地区の半分以上は立ち入ることができない。倉本さんは人影のない夜の森地区に生きる桜の木々に特別な思いを抱く。

 17年の訪問の際にスケッチした桜の木々を点描画として仕上げた。作品に添えられた倉本さんの言葉とともに、全国各地の作品展で紹介され、見る人に原発事故の不条理さと未曽有の災害に立ち向かう福島の現実、県民の思いを訴えてきた。

 今回もスケッチブックを持参した。「なぜ、夜の森が帰還困難区域なのか。なぜ、放射線量が高かったのか」。避難生活を送る夜の森地区の住民や桜の木々の思いを代弁するかのように何度もつぶやき、静寂の中で木々を見つめた。

 防潮堤に表情複雑 復興...政府姿勢に違和感

 倉本聰さんは震災から8年を経ても人影が戻らない街の現実と、復興の進展を強調する政府の姿勢に違和感を抱いてきた。

 「『状況はコントロールされている』という発言は何だったのか」。20年東京五輪・パラリンピック招致の際、安倍晋三首相が福島第1原発の汚染水漏れについて発言した言葉に今なお憤る。「福島がごまかされていないか」「福島を忘れてはいないか」。倉本さんは幾度となく訴え続けてきた言葉とともに、ペンを走らせた。

 今回の訪問では、夜の森地区とともに、どうしても行きたい場所があった。大津波で多くの住民が命を失った相双地方の沿岸部。富岡町から浪江町、南相馬市と北上し、沿岸部の8年度の姿を見た。倉本さんにとって、震災、原発事故直後の11年から幾度となる慰霊や慰問、取材などで訪れてきた特別な思いを抱く場所だ。

 浪江町請戸地区の町営大平山霊園では、震災の津波犠牲者を悼む慰霊碑に鎮魂の祈りをささげた。

 「まるで万里の長城だ。堤防が海を隠している」。倉本さんは沿岸部を視察する中で、津波被災地区の海岸に建設された防潮堤に複雑な表情を見せた。景観の保全と防災のどちらを優先するかという極論は理解しながらも、どうしても納得できない思いがあった。「街は『生き物』で時間とともに姿を変えるが、海や山は変わらない。それなのに海が見えなくなったら、そこで暮らしてきた人たちの原風景じゃなくなるよ」。倉本さんの口からまた、「原風景」の言葉が出た。

 人影のない帰還困難区域の街では、荒れ果てた住居や地震で傾いたままの住居を見た。津波被災地区には巨大な防潮堤が建設され、高台に登らなければ、海が一望できなくなったことを知った。「人にとって古里の原風景でなくなれば、そこが帰りたい場所じゃなくなるよ。それが悲しい」。倉本さんの言葉が未曽有の災害から8年を迎えた福島の現実を突き付ける。

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 くらもと・そう 東京都出身。東大文学部美学科卒。1963(昭和38)年にニッポン放送を退社し、脚本家として独立。77年に北海道富良野市に移住し、代表作「北の国から」をはじめ、「前略おふくろ様」「優しい時間」「やすらぎの郷」などテレビ、映画で話題作を生み続けてきた。4月からは脚本を手掛けた昼ドラマ「やすらぎの刻(とき)~道」がテレビ朝日系列でスタートする。舞台でも「ノクターン―夜想曲」「走る」など多数の脚本、演出を手掛ける。