松平容保「御宸翰」...明治天皇の手に 30日間保管、その後返却

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「会津の歴史で新しい事実を掘り起こしていきたい」と話す白石研究員=東京都千代田区

 幕末に孝明天皇から会津藩主松平容保(かたもり)へと送られた御宸翰(ごしんかん)(天皇直筆の書)が1889(明治22)年、容保から明治天皇に提出されていたことが、宮内庁宮内公文書館の史料から明らかになった。朝敵ではなかった証しとなる御宸翰を、容保は亡くなるまで肌身離さず持ち歩いたと伝わる。専門家は「会津藩の歴史を語る上で重要な発見」と驚いている。

 宮内庁書陵部の白石烈(つよし)研究員(40)=いわき市出身=の調査で判明した。旧会津藩士秋月悌次郎が久邇宮(くにのみや)朝彦親王(幕末の会津藩協力者)家に宛てた89年12月付の手紙の写しによると、同年7月に宮内大臣土方久元から「宸翰を宮内省に提出して明治天皇のご覧に供するように」と口頭で命じられた。7月20日、容保が宮内大臣の自宅に宸翰を持参して提出。明治天皇の手元に約30日間置かれ、その後返却されたとある。明治天皇御手許(おてもと)書類(献上されて宮内省が管理していた史料)の目録写しにも、提出された宸翰の内容が記載されていた。

 孝明天皇は63(文久3)年に起きた「八月十八日の政変」の成功を喜び、その気持ちをしたためて10月19日に容保へ宸翰を下した。容保は宸翰を表に出さず、93(明治26)年に容保が亡くなった際、首から下げた竹筒から見つかったとされるが、「宮内省は提出期間の30日の間に宸翰原本を筆写してから会津松平家に返却した。内容の全ては明治天皇と宮内省上層部の一部では把握されていた」と白石研究員は指摘する。

 この1年前には薩摩島津家にも宸翰提出が求められていることから、「14歳で父(孝明天皇)を亡くしている明治天皇は、この時期から父の人物像に関心を持ち始めたのではないか」と白石研究員。さらに1902(明治35)年10月、困窮する会津松平家に明治天皇から御手許金3万5000円が下賜(かし)されることになった理由について「明治天皇の意向なしでは考えられない。宸翰の内容を把握していたことが、会津松平家への下賜につながったのではないか」と話した。

 今回の発見について、幕末・維新史に詳しい作家の星亮一さん(84)=郡山市=は「宸翰を見た明治天皇は大いに驚かれたと思う。会津の史書には見当たらない歴史秘話」と評価する。また、容保の孫娘、秩父宮勢津子妃が大正天皇の第二皇男子に嫁いでいることを指摘し、「明治天皇の驚きが大正天皇へと受け継がれ、勢津子妃の皇室入りが決まったのではないか」と語った。

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