【復興の道標・自立-4】親の失職子にも変化 世帯ごとの事情はさまざま

 

 「同じ作業で飽きないの」 「大変だけど仕事だから」

 飯舘村から避難する中川朋也(14)=飯舘中2年=は震災前、父が経営していた村内のビニール袋製造工場で、父の仕事ぶりを眺めながらこんな会話を交わしたことを覚えている。黙々と仕事する背中を見詰め、「いつか同じ仕事がしたい」と思った。その父は原発事故後に工場をたたみ、除染作業に就いている。朋也は今、目標や進路をまだ決められずにいる。

 原発事故後、朋也と家族は伊達市の親戚宅を経て福島市の借り上げ住宅に避難した。建設会社勤めで再出発した父は、2013(平成25)年から村内で働く。除染の従業員の日程や作業工程などを管理するデスクワークが仕事の中心だ。

 「仕事人」としての父の顔を見ることはほとんどなくなった。村にいたころは、学校から帰宅する途中、自宅近くの工場に寄り、仕事の風景を眺めるのが日課だった。今は家庭で仕事の話は出ないし、「除染」といってもピンとこない。昔なんとなく考えていた「村で働き、生活する」という思いは、すっかり薄れてしまった。

 震災と原発事故から4年8カ月余りが経過し、子どもにとっての「親の背中」も変化した。朋也の父は避難先で再出発して前向きに仕事をするが、中には「賠償金で生活できるから」と職に就かない人もいる。

 県内の公的機関で子どもの支援に当たる女性(46)は「世帯ごとの事情はさまざまで、決め付けはできない」としながらも、「親の姿を見て、子どもが賠償金への依存に疑問を持たなくならないかとの危惧がある」と指摘する。

 働くことへの責任感

 支援活動をしていると、親子の間で「向こう5年は賠償金で生活は困らない」などの言葉が交わされている例も耳にする。「子どもが働くことへの責任感を持つためには、親の自立を促す必要もある」

 朋也が進路を決められないのは、周りの環境の変化も背景にある。福島市に避難し、買い物は便利になり、遊ぶ場所もたくさん見つけた。自宅近くには塾もある。将来に向けた選択肢は広がったようにも思う。

 どんな分野に興味が持てるのか、まだ自分でも分からない。ただ、高校に進学して、できれば大学も卒業したい。そしておそらく「村には戻らず、福島市で働く」。おぼろげながら、今はそう考えている。(文中敬称略)

 (2015年12月2日付掲載)