「時計...止まったまま」 双葉病院の悲劇、原因究明を訴え

 
「時計...止まったまま」 双葉病院の悲劇、原因究明を訴え

原発事故による避難で入院患者が犠牲になった双葉病院。3年がたつ今も避難は継続し、病院の入り口は門で閉ざされている=2月25日、大熊町

 2月下旬の大熊町。役場から南に1キロほどの双葉病院に人影はなく、病棟は静まり返っていた。原発事故直後、病院に取り残された患者と、隣接する介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」の入所者の多くが自衛隊に救出されるまでと、その後の搬送中に命を失った。この痛ましい出来事の面影は次第に薄れていく。

 しかし、院長の鈴木市郎さん(79)の脳裏から3年前のあの悲劇の記憶が消えることはない。「時計の針はあの日から止まったままだ」。鈴木さんは患者らの救出が遅れた原因究明を訴え続けている。

 同病院では、東京電力福島第1原発1号機で水素爆発が起きた2011(平成23)年3月12日に最初の避難が行われたが、患者約130人と鈴木さんが残った。同14日午前、入院患者34人と同施設の入所者98人が南相馬市に向かったが、最終的に搬送されたのは医療設備のないいわき市のいわき光洋高だった。到着後に8人の死亡が確認された。さらに患者ら50人が同3月末までに命を落とした。

 東電福島原発の事故調査・検証委員会(政府事故調)は報告書で、この問題について県災害対策本部内の情報共有の不備などが要因となったと指摘した。「なぜ南相馬から福島を経て、いわきに搬送しなければならなかったのか。県に聞きたい」。鈴木さんは3年たった今も、この疑問が拭えないでいる。

 一方、犠牲になった患者の遺族らによる東電を相手にした提訴も相次ぐ。不正確な広報で一時は患者を置き去りにしたと「誤解」され、名誉回復に苦慮した鈴木さんは県に、原因究明を求める活動を続ける。「あっという間の3年だったが、何も進んでいない。亡くなった患者の墓前に報告できない」。3年という歳月も、鈴木さんの人生の時計を再び動かすには至っていない。