2015語り継ぐ戦争 17歳で原町飛行場勤務 特攻隊員と海渡る

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新妻 幸雄さん 90 (南相馬市)

整備員として特攻隊員たちを間近で見ていた新妻さん。「戦争を知っている人間が、戦争を語っていかなくてはいけない」と話す

 ◆新妻 幸雄さん 90 (南相馬市)

 「軍の仕事に携われるというのは憧れだった」。南相馬市原町区の新妻幸雄さん(90)は、自身の青年期に遭遇した戦争の時代をこう振り返る。

 旧原町市の尋常高等小学校を卒業し、17歳のころに陸軍の原町飛行場で整備員として働き始めた。飛行場は現在の原町高から南西に約3キロの所で、当時は広大な平地だった。格納庫や学生舎、燃料庫などの施設群と、重爆撃機の離着陸も可能な滑走路が設けられていた。1940(昭和15)年6月に開場し、太平洋戦争中、特攻隊員の訓練基地となり、同年代の若者たちが訓練に明け暮れていた。

 大空飛び立った12人  

 飛行機の整備に携わっていた新妻さんは、同飛行場で訓練を終えた特攻隊員たちと共にフィリピンに向かった。「特攻隊員が出撃するまで、飛行機を完璧に整備するのが自分の仕事」だったからだ。

 12人の若者たちが大空に飛び立った。「これでお別れなのか」と思うと、話しかける言葉が見つからず、「ただ『成功を祈る』とのひと言しか言えなかった」と振り返る。

 その後、海軍の爆撃機に乗り、中国経由で本国に戻った。原町飛行場で残務整理をしていた時、終戦を迎えた。

 答えの出ない問い  

 「優秀な若い人たちが志願して戦地に赴き、特攻隊員として命を落とした」。隊員たちの姿を間近に見ていた新妻さんには、その命のはかなさが心に残る。家族の遺影とともに、送り出した隊員の遺影を自宅に飾り、戦場に散った若者たちを弔い続けている。

 「何のために戦争をしたのだろうか」。自問しても、明確な答えは、いまだに出せないでいる。「自分たちやその下の世代で戦争を知っている人間こそが、戦争について語っていかなくてはいけない」。不戦を誓い、平和を紡いできた当事者として、残された人生に、これからの日本のことを思う。