2015語り継ぐ戦争 終戦間際に父が戦死 力合わせ生き抜く

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浅野 義雄さん 75 (桑折町)

戦死した父のアルバムをめくる浅野さん。「後世に戦争をしてはならないと伝えたい」と話す

 ◆浅野 義雄さん 75 (桑折町)

 「四等機兵修業記念 横須賀海兵団」と記された一冊のアルバムを手にする桑折町の浅野義雄さん(75)。36歳で戦死した父運七さんの写真が収められ、何度も見たせいか、ページの端々がすり切れている。

 親のありがたみ胸に

 「親がいて今の自分がいる」。浅野さんは戦争で家族を亡くした悲しみを胸にしまい、親のありがたみを口にした。

 運七さんは海軍に所属。宮城県女川町沖の海で米軍の艦砲射撃に遭い、亡くなった。1945(昭和20)年8月9日。終戦間際だった。まだ幼かった浅野さんは、父と長い時間、触れ合うことはなかった。「たまに帰ってきた時に、肩車してもらったことが今も忘れられない」と懐かしむ。

 運七さんの葬儀は2回行われている。初めは亡くなったと知らされた時。次は遺骨が帰ってきた時。終戦直後、「母は泣いてばかりだった」。一家の大黒柱を失い、残された浅野さんと母、弟の家族3人。農業で生計を立てるなどして戦後を生き抜いてきた。

 避難者からの礼状

 家族が協力する大切さは東日本大震災でも感じた。発生時には桑折町議会議長を務め、余震が続く中、各地からの避難者受け入れを町議会で協議した。後日、一通の礼状が届いた。「ご支援いただき今日があると感謝しております」。津波で相馬市の自宅が流され、同町に一時避難、その後、同市に戻って家を建て直した男性からの手紙だった。そこには被災を家族で乗り越えた人の丁寧な文章がつづられていた。

 同町の復旧作業が一段落し、町議を引退。現在は同町遺族会長として戦争を語り継いでいる。「残された家族が教訓をつないでいかなければ」と力を込める。「後の世代まで『戦争をやってはならない』と伝えたい。まずは子ども、孫にしっかりと話をすること。それが戦争をしないことにつながる」