【陸前浜街道・全6回(2)】 いで湯で疲れを癒やす

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 いわき市を抜ける陸前浜街道の旅は新緑に囲まれた山路を進み、藤原川を渡り上船尾宿を目指す。途中、磐崎中に向かう狭い坂道の上り口に「駒止めの滝」があり、足を止めた。説明板には「後三年の役」にまつわる言い伝えが記されていた。都に戻る途中の源義家が滝に差し掛かると、愛馬が倒れた。義家は滝の水で介抱したが、馬が死んでしまったため、いつからか「駒止め」と呼ばれるようになったという。坂道を進むと、磐崎中に着く。旧湯長谷藩の館跡を示す碑があった。坂を下ると、上りでは気付かなかった軒を並べる屋敷が目に入り、映画「超高速!参勤交代」のモデルとなった石高1万5000石の小藩の面影を見た。

 旧街道をさらに進み、起伏が少なくなると、上船尾宿に入る。現在の地名はいわき市常磐関船町。明治時代に関村と上船尾村が合併して「関船」となり、「上船尾」の名前が消えた。近代化した旧街道沿いにたたずむ金刀比羅(ことひら)神社が、往時の宿場をしのばせる。

 北に向かうと、舞台はいわき湯本温泉に移る。旧街道唯一の温泉宿場として栄えた湯本宿。旅館や公衆浴場、商店などが立ち並ぶ街中を散策すると、「古滝屋」など歴史を刻む屋号と出会い、旅情が募る。旅人が疲れを癒やし、時には病気や傷を治療した。いわき湯本温泉は江戸時代の温泉番付「江戸諸国温泉番附」の上段に記された名湯で、年間約3万人が足を運んだという。「湯本は多くの人々が交わる場所だったと思う」。同市常磐湯本町で写真館を営む寺主君男さん(65)は、いで湯で疲れを癒やす旅人や農閑期を利用して湯治に訪れた農民、参勤交代の途中の大名や武士が混在した湯本宿の姿に、いわき湯本温泉の原点を見る。

 JR常磐線の線路を越えると国道6号に出る。石炭を採掘する際の捨て石の集積場だった「ボタ山」には木々が茂り、炭鉱の町として栄えた姿は薄れていた。両側を山に挟まれた堀坂通りを下る。この場所は南北朝時代や戊辰戦争の激戦地として知られる古戦場で、下った先には御厩(みまや)宿としてにぎわった同市内郷地区がある。国宝「白水阿弥陀堂」や常磐炭田発祥の地「弥勒(みろく)沢」など歴史を紡いできた史跡が点在するが、寄り道もほどほどに磐城平城下に急いだ。

 平城下を目前に国道6号から旧道に入ると、朱色の橋が旅人を迎える。旧尼子橋は平城周辺で一番の風景として人々に愛され、文人画人が好んで詩歌を作り絵を描いた。「みちのくの 尼子の橋や いねのうへ」。橋を渡ると、詠み人しらずと書かれた詩人草野心平揮毫(きごう)の句碑が立っていた。橋の情景を巧みに表現した名句だ。江戸時代、橋の下の大半は稲田で、橋上からは三層櫓(やぐら)の平城を望むことができた。

 作家吉村昭が書いた最後の歴史小説「彰義隊(しょうぎたい)」には皇族でありながら戊辰戦争で朝敵となった輪王寺(りんのうじ)宮能久(のみやよしひさ)親王(しんのう)が会津、仙台と諸国を落ち延びる中で、尼子橋を渡り、平城下に入るシーンが描かれている。いわき歴史文化研究会代表の小野一雄さん(72)は2003(平成15)年か04年ごろ、同市を訪れた吉村から取材を受けたという。「(高齢でありながら)助手を付けずに1人で現地に足を運び、取材する姿に驚いた」。現場と史実にこだわり、記録文学、歴史文学の長編作品を残した作家を物語る逸話だ。

 雨上がりの橋は朱色が鮮やかさを増しているように思えた。憧れの作家の在りし日の姿を思い浮かべながら、旅路を急いだ。