本紙に「智恵子の空―生誕120年に寄せて」を連載したエッセイストの大島裕子さんの講演会は5日、二本松市のラポートあだちで開かれた。大島さんは「智恵子の空―『智恵子抄』と福島」と題して、光太郎と智恵子の人生の軌跡たどる希有けうな愛の詩集としての意義を強調した。
(文化部・森哲也)
まず初めに、光太郎は詩人としてどのような人であったかに触れたい。
光太郎は初めての詩集「道程」で、近代的自我を主張する詩人として登場した。「道程」後期では、智恵子と出会ったことで愛の喜びを詠うたい、詩にも変化が見られるようになる。文学史的にみれば、漢詩調の文語詩を脱却し、口語自由詩を完成させた詩人として位置づけられる。
「智恵子抄」は、昭和16年8月に出版された。詩集にある「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」などのフレーズが、夫や恋人を戦地に送りだす女性たちの気持ちを代弁、戦時中では異例のベストセラーとなった。
光太郎は、ヒューマニズムの詩人といわれるようになるが、戦争詩を書いたことで、戦後に批判を受け、自己批判を含めて出版したのが詩集「典型」だった。
「智恵子抄」についての評価は、2つに分かれている。詩人・伊藤新吉は「智恵子抄は愛の詩集だ」と言い切る。一方、評論家・吉本隆明は「智恵子抄」に生身の智恵子が登場していないことから「高村の独り角力すもう」と言い、80年代にはフェミニズムの視点から「純愛の書というより、光太郎の贖罪しょくざいの書」と批評された。その後、智恵子の書簡や随筆などが相次いで見つかり、智恵子は自分の言葉で語り始めた。紙絵作品も展覧会などで広く紹介され、油絵やデッサンの発見などで、愛と芸術に生きた日本の先駆的な女性として、いまや動かせない存在となっている。
90年代以降、生家が復元され智恵子記念館が開設、県内外から多くの人が足を運ぶようになった。私も12年前に生家を訪れ、智恵子をより身近に感じたことが「智恵子抄の世界」に入るきっかけになった。智恵子は、実家の没落や統合失調症などのマイナスイメージや、光太郎の陰に隠れた哀れな妻という悲劇のヒロインの印象が強かった。今年は、生誕120年、光太郎没後50年の節目の年であり、再評価が必要とされている。
「智恵子抄」に収められている本県関連の詩は、「樹下の二人」「あどけない話」「山麓の二人」である。中でも「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」ではじまる「樹下の二人」は、9年間の空白を経て書かれた智恵子への愛の詩である。「樹下の二人」の中で、光太郎は智恵子のことを「魔もののように捉えがたい」「不思議な別箇の肉身」と書いている。その前に書かれた詩「僕等」では、「僕のいのちと あなたのいのちとが よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ」とあり、2つの詩を比べると光太郎と智恵子との間には距離がある。9年の間、智恵子は何度も大病をしたり、肉親を相次いで亡くしている。友人の糠沢てい子にあてた書簡に「私は自分の愛するもの親しいものを なくてはならないものゝ死をあまりに経験しすぎるほど経験してきました」と書いている。悲しい体験をして、智恵子は変わった、と光太郎には映ったのかもしれない。それでも2人は「静かに燃えて手を組んでいる」。そこに光太郎は愛の本質を描こうとしたのだろう。
「智恵子抄」は、その時々に光太郎が書いた詩を集めて1冊にまとめた詩集である。単純な追悼や愛の詩ではなく、本当にあった2人の生き様と、その愛の軌跡が描かれた希有な詩集。詩はどう読まれてもいいが、それが生まれた背景を知ることで、詩も新たな輝きを放ち、理解が深まる。
2人の名前が、この先、何百年先までも忘れられないようにみなさんと力を合わせ顕彰していきたい。
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大島さんは、高村光太郎研究会会員で名古屋市在住。主な著書は「智恵子抄を歩く―素顔の智恵子」「智恵子抄の世界」(新典社)。「智恵子の空」は、7月5日から9月27日まで、毎週水曜日に掲載された。講演は、高村智恵子の命日を記念した第12回「レモン忌」で行われた。
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