智恵子の空TOP
【7月5日付】
美の世界へ/秘めた情熱と夢が開花
昭和2年、箱根大湧谷で撮影された光太郎(44歳)と智恵子(41歳)
新たに見つかった智恵子による油絵「初夏」。光太郎との出会いから半年後、25歳ごろの作品で、明治45年『少女世界』5月号の口絵として掲載された。『少女世界』には智恵子の妹セキが書いた少女小説も掲載されている。

 智恵子が本格的に絵の道に進むことを考えたのは、明治36(1903)年春、日本女子大学校に入ってからである。進学に反対する両親を、同郷の恩師服部マス(日本女子大学校1回生)のとりなしで、「家政学部なら」という条件でどうにか説得した。

 上京後、欧米の近代文化に接した智恵子は、次第に美の世界に目覚めていく。彫刻家ロダンをはじめ、後期印象派の画家セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ等の芸術に傾倒、《私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない》と智恵子は『美術週報』に書いている。

 女子大在学中から、自由選択科目の西洋画教室に頻繁に足を運ぶようになる。そこには日本近代洋画の草分けともいえる画家、松井昇がいた。智恵子は松井からデッサンや水彩画の指導を受けている。

 明治40年、女子大を卒業した智恵子は郷里に帰らず、両親の反対を押し切って太平洋画会研究所(現太平洋美術会)に通う。太平洋画会の前進は、小山正太郎、浅井忠等によって、明治22年に創立された明治美術会である。

 明治40年代、官営の東京美術学校(現東京芸大)は男子校だった。画家を目指す女性たちにとって、私立の画塾の存在は何よりも有り難かった。

 当時、太平洋画会には津田青楓、中村彝つね、満谷国四郎みつたにくにしろうといった新進気鋭の洋画家たちが出入りしていた。智恵子は雑司ケ谷にある彼らのアトリエにも足を運び、積極的に新しい絵画を吸収していった。そのころの智恵子の画業はあまり知られていない。友人の柳八重は、智恵子のデッサン(木炭紙の厚さにして2センチ)と自画像を見たことがあるという。光太郎は、結婚してからも「主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた」という。

 その多くは戦災などで焼失した。現在残っているのは、智恵子が独身時代に描いた油絵3点、デッサン2点の計5点。そのうち4点が二本松市智恵子記念館に所蔵されている。

 最近、新たに見つかったのは、明治45年『少女世界』の口絵として掲載された「初夏」(正月号)、「お人形」(5月号)の油絵2点である。『少女世界』は明治期最大手の出版社、博文館が発行した少女雑誌である。2点とも当時としては貴重なカラー刷りで、絵の横には「長沼智恵子筆」とある。

 2年前になるが、筆者は山梨県にある清春きよはる白樺美術館を訪れた。大正2年に智恵子が描いた油絵「樟くぬぎ」を見るためである。静かな展示室の一番奥に、智恵子の絵はあった。じっと見入っていると、葉はウルトラマリン・バイオレットで色付けされ、枝はのびのびと、まるで生きているようだ。

 同室に掛けられたルオーの重厚な絵にも負けず伝わってくるのは、智恵子の「描きたい」という思いである。子ども時代から胸に秘めていた情熱や夢が、一気に開花したような勢いの絵である。

 この「樟」が描かれたころ、智恵子を訪問取材した新聞記事がある。それによれば、当時の女性画家は皆、印象派の絵を「忠実に写す」ことに明け暮れたが、「我が智恵子などは、男をも凌ぐ新しさを持って、花のような未来を楽しんでいる」とある。太平洋画会で4、50人の研究生がモデルと粘り強く向き合っている中、自由な形、自由な筆の「女史のカンバスだけはいつも自分の『心もち』があらわれて」いたと評価している。

 画家の渡辺文子も「智恵子さんは美しい、なよなよとした女性で、話す声も聞きとりにくいほどの控えめな外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした」という。
 【メモ】高村智恵子(上) 

 明治19年5月20日、旧安達町(現二本松市)の酒造家、長沼今朝吉・センの長女として生まれる。油井小学校高等科、福島高等女学校を経て、日本女子大学校普通予科に入学、20歳で同校家政学部専科卒業、太平洋画会研究所に通う。 
 
 


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