智恵子の空TOP
【9月6日付】

心癒やす 思い出の地/「山麓の二人」
光太郎のやり場のない気持ちが胸に迫る、「二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は・・・」と「山麓の二人」に詠われた裏磐梯=北塩原村の瑠璃沼付近
東北旅行の2人=塩原温泉鹿股川 昭和8年9月
大島裕子
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 大正2年、智恵子は光太郎のすすめで上高地での風景画3点を文展(文部省美術展覧会)に搬入した。が、あっけなく落選。その後、子どもを欲しがった智恵子は、子宝の湯として知られる五色温泉(山形県米沢)に湯治に行ったり、後屈症の手術を受けたりしたが、その望みも適かなわなかった。

 また、昭和4年、実家の造り酒屋が破産し、翌年には残された土地をめぐる家族間の民事訴訟事件で、智恵子は福島地方裁判所に呼び出され、証人として出廷した。度重なる不幸で智恵子は次第に心を病んでいく。

 その後、光太郎は気力をなくした智恵子を連れ、東北の温泉場を巡った。楽しかった思い出の地で、好きな温泉につかれば智恵子の心も癒やされると思ったのである。 

 昭和8年8月25日、旅の初めに智恵子の実家の近くの役場で正式に入籍の手続きをした。光太郎五十歳、智恵子47歳のことである。その足で2人は安達村飯出の満福寺にある長沼家のお墓に参り、午後、裏磐梯の川上温泉に向かった。

 当時、磐越西線川桁駅から軽便鉄道に乗って名家みょうけに行くことができた。磐梯高原を駆け抜ける軽便鉄道の姿は、さぞ牧歌的だったことだろう。名家から少し歩くと、2人が泊まった滝ノ湯がある。現在、日帰り露天風呂「宇奈月」(猪苗代町山神原)が立っている場所である。

 周辺には今もいたる所に清水が流れ、水際にはみずみずしいクレソンやミントが自生している。大正13年8月に滝ノ湯を訪れた田子健吉(元福島民友新聞社長)は、宿の自慢はビールと枝豆、そしてナマズのフライだった(『磐梯と猪苗代湖』)という。

 磐梯山は、明治21年に噴火、裏から見ると真ん中がえぐられたような形をしている。この噴火で五色沼、桧原湖、小野川湖・秋元湖といった大小300ほどの美しい湖沼群ができた。

 二人が散歩したという五色沼周辺を歩いてみた。高原特有の爽さわやかな風が吹き渡り、青い空の下でススキの穂が揺れていた。この裏磐梯での出来事を、のちに詩にしたのが「山麓の二人」である。

 《二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は/険しく八月の頭上の空に目をみはり/裾野とほく靡なびいて波うち/芒すすきぼうぼうと人をうづめる/半ば狂へる妻は草を藉いて坐し/わたくしの手に重くもたれて/泣きやまぬ童女のやうに慟哭どうこくする/―わたしもうぢき駄目になる》。

 愛する夫のことまで分からなくなるのでは、と不安におびえて泣き出す智恵子。《この妻をとりもどすすべが今は世に無い》という光太郎のやり場の無い気持ちが、噴火で2つに炸裂さくれつした裏磐梯の景色と相まって読むものに迫ってくる。

 ピンクのコスモスが風にたなびき、林の中からウグイスの鳴き声がする。季節外れのアジサイの花も色鮮やかに咲き、標高720メートルの川上温泉は、避暑に最適な場所である。しかし2人の東北旅行で、川上温泉の滞在期間は一泊と最も短い。馴染なじみ深い場所が、かえって智恵子の深い悲しみを誘ったのであろうか。

 たびたび実家に帰省していた智恵子は、妹と磐梯山に登り、絵を描いたこともあった。ふるさとの家が崩壊した今、裏磐梯の景色を見ることさえ辛つらかったに違いない。光太郎も察したのか、翌日には早々に川上温泉を発っている。

 それにしても神秘的な五色沼は、よほど絵心をそそるのだろう。散策している途中、エメラルドグリーンの水をたたえる深泥みどろ沼の辺でスケッチをする年配のご夫婦に出会った。肩を寄り添い、絵筆を走らせる後姿に、思わず光太郎と智恵子を見たような気がした。
 【メモ】「東北旅行ルート」 

 
光太郎と智恵子は、昭和8年8月24日夜東京を出発、25日に裏磐梯・川上温泉「滝ノ湯」に一泊。26日〜31日は青根温泉(宮城県)「湯元不忘閣」に宿泊。9月1日〜4日は土湯温泉「不動湯温泉」に、5日〜中旬までは塩原温泉(栃木県)「柏屋旅館」に滞在した。「滝ノ湯」以外は、現在も営業を続けている。
 
 


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