智恵子の空TOP
【9月13日付】

愛しき人の変貌に涙/九十九里の砂浜
「風にのる智恵子」「光太郎自筆原稿、雑誌「書窓」(第1巻第2号)昭和10年5月号
「智恵子抄碑」=九十九里浜町真亀納屋
大島裕子
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 昭和8年9月、光太郎と智恵子は約3週間の東北旅行から上野駅に戻るが、智恵子の朦朧もうろうとした意識は恢復かいふくしなかった。アトリエで目の離せない病人を抱え、僅わずかな外出もできない。光太郎は、医師と相談し、智恵子を九十九里浜 町真亀納屋まがめなや「田村別荘」で転地療養させることにした。

 昭和9年5月7日、かねてより真亀に住んでいた母と妹セツ夫妻に智恵子を預けた光太郎は、2日後に帰京するが、置いてきた智恵子を想おもうと仕事が手に着かない。

 光太郎は「節子さんによんでもらって下さい。…何という美しい松林でしょう。あの間から来るきれいな空気を吸うとどんな病気でもなおってしまうでしょう。そしておいしい新しい食物。よくたべてよく休んで下さい。智恵さん、智恵さん」と手紙を書いた。

 智恵子は文字も判読できない病状だった。手紙からは、「智恵さん、智恵さん」と妻を励ます光太郎の優しさと切なさが伝わってくる。

 同じ日、光太郎は親友、水野葉舟ようしゅう(歌人・随筆家)に手紙を書いている。

 「小生の3年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたうまねをしているちえ子を後に残して帰つて来る時は流石さすがの小生も涙を流した」。

 「涙を流しました」ではなく「流した」と無骨に書く行間に、親友に本音を漏らす光太郎のやるせない気持ちが垣間見える。 

 その後、智恵子の九十九里での療養生活は正味7カ月間に及んだ。智恵子の介護には母センと妹セツがあたり、光太郎は1週間分の薬と、智恵子の好きな果物や、お菓子を持って、毎週、九十九里にいる妻を見舞った。

 「妻は熱っぽいような息をして私を喜び迎える。私は妻を誘っていつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして2人で休む」(「九十九里浜の初夏」)。 

 真亀海岸は、千葉県房総半島の約60キロにわたる九十九里浜の中ほどにある。大きな弧を描く遠浅の海岸に立ってみると、見えるのは空と海と白い砂浜だけである。 

 《人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の/砂にすわつて智恵子は遊ぶ/無数の友だちが智恵子の名をよぶ。/ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―》《天然の向うへ行つてしまつた智恵子の/うしろ姿がぽつんと見える》(「千鳥と遊ぶ智恵子」)。

 いつも「ほんとの空」に焦がれていた智恵子。ようやく手に入れた九十九里の《恐ろしくきれいな朝の天空》で、智恵子は千鳥と遊び、風に舞い、空を飛ぶ。

 しかし、《智恵子はもう人間界の切符を持たない》。二度と戻らない愛いとしき人の変貌へんぼうぶりに、光太郎は何を感じていたのだろう。

 九十九里での転地療養が始まる3カ月前、光太郎の父、光雲が胃を病んで東大病院に入院。光太郎は妻と父の見舞いを続け、さらに智恵子の弟2人の面倒も一手に引き受けるという、辛つらい現実の中にいた。

 「私はその頃ころの数年間家事の雑務と看病とに追われて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した」と光太郎はいう。実際に「千鳥と遊ぶ智恵子」や「風にのる智恵子」の詩が作られるのは、この1〜3年後のことである。

 智恵子の療養していた「田村別荘」跡の松林近くに歌碑が立っていた。《いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる》など、『智恵子抄』所収の光太郎の短歌三首が刻まれている。石碑の前には、智恵子と母、妹セツをなぞらえたという3体のお地蔵さんが、ひっそりと佇たたずんでいた。
 【メモ】 九十九里浜 

 
九十九里浜には田村別荘跡の「智恵子抄碑」(平成10年4月)の他に、地元の白涛俳句会や草野心平らによって建てられた「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑(昭和36年7月)がある。場所は、国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏。JR東金線東金駅より九十九里鉄道バス「サンライズ九十九里行き」終点下車。  
 
 


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