智恵子の空TOP
【9月20日付】

白く清浄な別れを詠う/レモン哀歌
智恵子作紙絵(12.3センチ掛ける12.2センチ)戦時中、アトリエの光太郎の作品はほとんど焼けてしまったが、智恵子の紙絵は事前に3カ所に疎開させていたため危うく戦火から守られた 南品川のゼームス坂病院(当時)
大島裕子
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 昭和9年12月、智恵子は九十九里浜での転地療養を経て、東京のアトリエに戻った。その後も病勢は機関車のごとく驀進ばくしん、自宅での介護も危険な状態になる。翌年2月、光太郎は智恵子を南品川ゼームス坂病院に入院させた。入院中、看護師だった姪めいの春子が付きそう。が、もはや姪のことも分からない智恵子に、病院は作業療法の一環として折り紙を勧めた。

 やがて智恵子は紙を切り抜いて、身の回りの日用品や、花、野菜、果物、魚などを作った。アラビア糊のりと7センチほどのマニュキア鋏はさみを用い、下書きもせずに色紙を一気に切り抜いていく。途絶えていた芸術への情熱が、奇跡的に再開したのである。制作は病状の安定した時期に限られたが、およそ2年半で千数百点の紙絵作品を遺のこしている。

 光太郎は「此等これらの切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情じょじょうであり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である」(「智恵子の切抜絵」)と、紙絵に称賛を惜しまなかった。

 昭和13年10月5日午後9時20分、智恵子はゼームス坂病院の15号室で息を引きとった。病院関係者を除けば、立ち会ったのは光太郎だけだったという。直接の死因は粟粒ぞくりゅう性肺結核。52歳だった。

 《そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱつとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ》

 智恵子の臨終を詠うたった光太郎の詩「レモン哀歌」の一節である。白く清浄な時を彩る、黄色いレモン。トパーズ色の香気が永遠へとほとばしる。秋空のように青く澄んだ智恵子の眼。傍に置かれた桜の花。淡い水彩画のような、うっとりとする感性の世界が広がっている。

 これが7年間にわたる壮絶な闘病の末の、妻の最期である。詩「レモン哀歌」に重さや暗さはない。「連日連夜の狂暴状態」だったという現実の智恵子の姿は、いっさい描かれていない。また、智恵子が亡くなったのは10月だが、「レモン哀歌」は雑誌「新女苑」4月号に発表されるため、光太郎は《写真の前に挿した桜の花かげ》の一節を詩に添えた。

 光太郎は「じっさいは芝居のように、あんなに大げさに泣いたり笑ったりするものではない。がそれでは詩にも彫刻にもならない。実人生の中から、必要なものを誇張して取り出したのが芸術です。それを仮象かしょうといいます」「本物以上に本物に見えるのはこの仮象のためです」(佐藤勝治『山荘の高村光太郎』)という。

 また、藤島宇内うだい(詩人)が、「智恵子抄は、高村さんの智恵子さんに対する気持の半面しかあらわしていない」と言うと、光太郎は「そうなんですよ。いやな面はかくしたんです。だけどあれを書いた頃ころはそうするのが作品だと思ってたな。本当はもっと書かなきゃならないことがたくさんある」(「高村さんの一断面」)と打ち明けている。

 智恵子の死は実際にあったことだが、その瞬間をいっそう際だたせるために「必要なものを誇張して取り出した」と光太郎はいう。『智恵子抄』の他の詩にもあてはまることだろう。

 『智恵子抄』には嘘うそがあると言いたいのではない。2人の生きざまの切実にして抜き差しならないものや、人間がぎりぎりの土壇場で見せる真実の姿や想おもいといった『智恵子抄』の深層が、そこから見えてくるのである。
 【メモ】ゼームス坂病院 

 東京都品川区南品川6丁目に開設(大正12年)された精神科の病院。すべて開放病棟で作業療法などを積極的に取り入れた先駆的な病院だった。病院跡地には、品川郷土の会により「レモン哀歌」詩碑(平成7年)が建てられた。JR京浜東北線「大井町」駅下車、徒歩10分。
 
 


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