智恵子の空TOP
【9月27日付】

永遠の愛と美の結晶/乙女の像
光太郎作「裸婦群像」(通称:乙女の像)昭和28年10月除幕=青森県:十和田湖畔休屋御前ケ浜 高村山荘=岩手県太田村山口
大島裕子
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 昭和16年8月、龍星閣から詩集『智恵子抄』が刊行された。同年12月8日、日本は太平洋戦争へと突入。「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず」「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき」と詠うたった思い出のアトリエも、昭和20年4月、空襲により炎上した。

 翌月、光太郎は宮沢賢治の弟、清六のすすめで岩手の宮沢家の離れに疎開。光太郎62歳のことである。その宮沢家も8月10日の空襲で戦災に遭う。光太郎は転々とした後、昭和20年10月17日、花巻市太田村の山小屋に落ち着いた。

 筆者は数年前、その山小屋を訪ねたことがある。水田の水芭蕉が美しい季節だった。

 家は套屋とうおくで囲われていた。昭和33年、光太郎を敬慕する村人が一本一本持ち寄った木で最初の套屋が建てられ、昭和52年、谷口吉郎(建築家)の設計で第二套屋が建てられた。

 白く丈夫な套屋の外壁に比べ、実際の住まいは杉皮葺ぶきの屋根、荒壁、障子一重の窓、畳三畳半、思いがけなく惨みじめな小屋だった。

 冬は氷点下20度になる厳寒の地、吹雪の夜は寝ている布団に雪が積もり、炎暑の夏にはマムシやブヨに悩まされたという。漆黒の闇の中で1人、吹雪の夜を過ごす光太郎の気持ちは、どんなだっただろう。

 根っからの都会育ちの上、肺結核と肋間ろっかん神経痛を患っていた光太郎には、厳し過ぎる環境だった。

 光太郎は戦時中、智恵子に関する詩を書いていない。戦後、4年4カ月ぶりに智恵子は詩「松庵寺」に復活。その1年後の昭和21年、詩「報告(智恵子に)」を作り、智恵子への切実な思いを告げる。

 《あなたこそまことの自由を求めました/求められない鉄の囲ひの中にゐて/あなたがあんなに求めたものは/結局あなたを此世の意識の外に遂ひ/あなたの頭をこはしました/あなたの苦しみを今こそ思ふ/日本の外形は変りましたが/あの苦しみを持たないわれわれの変革を/あなたに報告することはつらいことです》

 かつて智恵子は光太郎の「審判官さばきのつかさ」であり「ジャイロ」だった。その絶対神のような智恵子が「身ぶるひする程いやがつてゐた/あの傍若無人のがさつな階級」のもとで、光太郎は戦争詩を書いた。それが「あなたの前では恥かしい」と、真っ先に「審判官」である智恵子に告白をしているのである。

 戦後、光太郎は詩「報告」「松庵寺」を含めた「暗愚小伝」という20篇の詩群を書いている。自らの「暗愚」と向き合う中で、智恵子は独自の生を得て、よみがえった。

 《智恵子はわたくしの中に居る/…うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、/耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい》(「元素智恵子」)と、その不在ゆえ逆に確かで密接な存在となって、六十六歳の光太郎の魂を捉とらえて放さなかった。

 昭和27年、光太郎は十和田湖国立公園指定15周年の功労者をたたえる記念彫像の依頼を受けた。制作のため7年ぶりに東京に戻った光太郎は、中西利雄(画家)のアトリエで制作に取り組んだ。

 《智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう》(「裸形」)と光太郎はいう。1年後に完成した「乙女の像」は、向かい合う2体の裸形。智恵子の「形と影」が向かい合っている。

 光太郎は「2体の背の線を伸ばした三角形が無限を表す」という。無限の小宇宙に、2人の愛と美の結晶をたたえ、「裸形」は今も湖畔に立っている。
=おわり
 【メモ】高村山荘 

 戦後、光太郎が移り住んだ花巻の山荘。山荘の150メートル先にある「高村記念館」には「乙女の像」原型をはじめ書、紙絵、日用品などが展示されている。近くには光太郎作「雪白く積めり」の詩碑や、わき水「智恵子の泉」がある。JR花巻駅から岩手県交通バス「高村山荘行き」で30分、終点下車、徒歩2分。
 
 


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