智恵子の空TOP
【7月12日付】

光太郎も驚く健脚ぶり/元気溌剌の娘時代
智恵子作油絵「静物」(48×63センチ)。大正初期に日本女子大学校時代の友人、田辺かつののために描かれた 五十島での智恵子(前列左)とスミ(後列右)=吉田東伍記念博物館所蔵
大島裕子
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 明治44(1911)年9月、日本で初めての女性雑誌『青鞜せいとう』が創刊された。与謝野晶子は有名な「山の動く日来きたる」で始まる発刊の辞「そぞろごと」を寄せ、発起人の平塚らいてうは「元始 女性は太陽であった」を書いた。そして創刊号の表紙絵を描いたのは智恵子だった。枯草色の地に焦茶でギリシア風女性と青鞜の2文字を描いている。

 平塚らいてうと智恵子は、日本女子大学校時代のテニス仲間だった。らいてうは自著の中で、「ネットすれすれの強い球を、矢つぎ早に打ちこんでくるのには悩まされました。もちろんサーブもすごいものでした」と智恵子のテニスの腕前を披露している。

 詩集『智恵子抄』では「小鳥のように臆病」な「をさな児」と表現された智恵子だが、実際は「女子大で成瀬校長に奨励され自転車に乗つたり、テニスに熱中したりして頗すこぶる元気溌剌はつらつたる娘時代を過ごし」(「智恵子の半生」)たという。

 明治42年2月、22歳の智恵子は、米沢市に住む鈴木少年に《この繁雑な世の中に出て奮闘するには随分よく心身をきたえて置かなければなりません》、運動は手当たり次第、若いうちは過ぎるくらいにやった方がいい、と熱心に手紙でアドバイスしている。

 その年の10月、智恵子は高崎や沼津にいる友人たちの家を拠点にして榛名、妙義、秩父、三保、沼津などを写生旅行で訪れ、女1人で方々の山に登っている。 高崎に住む藤井勇(ゆう)は、「あの人の健脚は驚くべきもので、何里でも、又どんな険しい山道でも平気」だという。大正2年夏、智恵子は光太郎のいる上高地を訪れた。2人の婚約登山となった上高地での健脚ぶりには、光太郎も驚いている。

 その冬、智恵子は旗野スミ(女子大の後輩)が住む新潟安田に一人旅に出た。山の雪景色を描きながら、ツベタ牧場でスミと乗馬やスキーを楽しんでいる。当時の日本には、まだスキーが一般に浸透していなかった。智恵子とスミはモンペに真っ赤なセーターというスタイルで牧場を滑走、ふたりの姿を目撃した近所の人たちは「あそこはバケモノがでる」といって騒いだという。毎朝起きると体中が筋肉痛で、首が動かないほどスキーに熱中した。新潟滞在中の智恵子に東京の光太郎が送ったラブレターが1通だけ残っている。「安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居ります」「まさかおからだがお悪い様なことはないんでせうね」と、なかなか帰って来ない智恵子の身を案じている。

 大正3年12月、ふたりは結婚。アトリエでの生活が始まると、智恵子は千駄谷の井上乗馬学校で乗馬を習い、再び太平洋画会研究所にも通って彫刻制作に熱中した。この年、智恵子は肋膜ろくまくを患って入院している。

 後年、光太郎は新時代の女性に関するアンケートに「過度の運動をせぬ事」という回答を寄せ、智恵子は「画室の冬」という随筆に《不断の仕事に堪える健康》を持つ光太郎が羨(うらや)ましいと書いている。

 大正5年、結婚2年目の夏、30歳の智恵子は1人で新潟の五十島いがしまにある旗野スミの別荘に長逗留とうりゅうした。美しい阿賀野川の景観を絵に描きながら、スミと一緒に花火見物や水泳を楽しんでいる。泳げないスミのため、智恵子は「まずは座敷で予行練習」と枕を胸にあて、畳の上で手足をバタバタ動かして泳ぎ方を教えたという。

 このとき光太郎は、新婚間もない初々しい愛の塑像「智恵子の首」を絵はがきにして、五十島にいる愛妻に送っている。「早く帰っておいで」という光太郎の声が聞こえてきそうだ。
  【メモ】高村智恵子(下) 

 
明治45年、太平洋画会展覧会に油絵出品。大正3年、高村光太郎と結婚。45歳より統合失調症の兆候。自殺未遂、転地療養などを経て48歳でゼームス坂病院に入院。50歳から紙絵の制作を始め、その数は千数百点に及ぶ。粟粒性肺結核により52歳で没  
 
 


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