智恵子の空TOP
【7月19日付】

2人の愛の世界に咲く/稀有で美しい花
智恵子作油絵「樟の木」(33.3×45.5センチ) 大正2年、日本女子大学校時代の友人、上野ヤスの住む沼津滞在中に描かれた=清春白樺美術館所蔵 グロキシニアの花(現在)。明治末期のものは花弁が5〜8枚だった
大島裕子

 明治45(1912)年6月、光太郎の新しいアトリエが駒込林町25番地に完成した。光太郎の転居通知(6日付消印ハガキ)は智恵子の元に届いていたに違いない。しかし何の音沙汰おとさたもなかった。《とんまな人から便りさへないよ…ちよいと意地を張つたよね》と光太郎は11日作の詩「青い葉が出ても」を書いている。

 それから数日後、智恵子はお祝いにグロキシニアの鉢を持って光太郎のアトリエを訪れた。当時、余り知られていない花を、なぜ選んだのか不思議である。

 グロキシニアとは、一体どんな花だったのか。近所の園芸店に問い合わせてみたところ、春先から初夏がシーズンだが、たまにしか入荷しない花だという。それでも今なら入手が可能で、値段も手ごろだというので、さっそく3鉢を注文した。

 我(わ)が家に届いたグロキシニアは、高さが13センチほど、厚いベルベットのような花びらがフリル状に咲いている。色の種類も赤、紫、ピンクとカラフルである。智恵子が娘時代に着ていたという「ぴらぴらした着物」を連想させる。明治末期に智恵子が持参した花は、こんなにゴージャスな品種だったのだろうか。

 園芸に詳しい松原裕隆氏(名古屋市東山植物園・指導園芸係長)に紹介して頂いた『最新園芸大辞典』によれば、グロキシニアはブラジル原産、植物分類上はシンニンギア属で、イワタバコ科の植物。プラントハンターと呼ばれる人々によってヨーロッパに持ち込まれ品種改良された。それが初めて日本に渡来したのは明治初年、一般に温室栽培されるようになるのは明治末期以降だという。

 明治後期のものは花びらが5〜8枚とのこと。12枚が幾重にも重なった我が家のものは、1957年にアメリカで改良されたダブル・グロキシニアという品種だと思われる。智恵子が持参したのは、もっとシンプルなものだったようだが、清楚せいそな野花というより、欧米の薫りを感じさせるデリケートな温室の花だった。

 このころから光太郎は智恵子の詩を書き始める。《誰か待つてゐる/私を待つてゐる》《ミステリアスな南米の花/グロキシニアの花弁の奥で》(「あをい雨」)。智恵子との愛の予感を謳うたった当初の詩には、智恵子の印象と重なり合うように、希有けうで美しい花グロキシニアが登場している。

 明治45年7月、光太郎のアトリエを訪問した親友の水野葉舟(歌人・小説家)は、「この部屋の彫刻台の上に、グロキシニアの植えてある赤い素焼の鉢が置いてあるのを見た」。「花の跡は全く枯れて腐ってしまって居」たという。我が家のグロキシニアも3週間ほどで枯れてしまった。次々に蕾つぼみは咲くのだが、花が鮮やかなだけに、枯れていく様子は寂しい。

 ちょうど進行中だった縁談を智恵子に打ち明けられた光太郎には、枯れて腐っていくグロキシニアと、自分から去っていく智恵子の姿とが重なった。

 明治45年7月25日、《あなたがお嫁にゆくなんて/いやなんです/あなたのいつてしまふのが―》《あなたの下すつた/あのグロキシニアの/大きな花の腐つてゆくのを見る様な》と、光太郎は「N―女史に」(のちの「人に」)を雑誌「劇と詩」に発表した。

 それから25年後、再びグロキシニアは謳われる。《雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く/枕頭ちんとうのグロキシニアはあなたのやうに黙つて咲く》(「亡き人に」)。智恵子は昭和13年に肺結核で亡くなった。「枕頭」とは「傍ら」のことである。智恵子亡き後も、光太郎に寄り添うようにグロキシニアは咲いている。
  【メモ】高村光太郎(上) 

 明治16年3月13日、東京下谷で木彫師(きぼりし)の高村光雲・ワカの長男に生まれる。東京美術学校卒業後、ロダンのような自由な塑像にあこがれてニューヨークからパリ、ロンドンに3年半の留学をする。帰国後、古い体質の日本美術界に反発、伝統を守る光雲とも対立した。

 
 


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