智恵子の空TOP
【7月26日付】

展覧会の便り/かぐわしい うちわ絵
光太郎作「栄螺(さざえ)」(高さ8a、幅12a、奥行き12a)。昭和5年以来行方がわからなかった木彫作品。4年前、70年ぶりに発見され、一昨年、愛知と福島で公開された。智恵子が縫ったと見られる作品を入れる袋には、光太郎自筆の未発表の短歌が書かれている=メナード美術館所蔵(藤森武氏撮影) 「あねさま」と「うちわ絵」展の案内状=神奈川県立近代文学館所蔵
大島裕子
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 明治43(1910)年4月、光太郎は日本初の画廊、琅玕洞ろうかんどうを東京神田淡路町に創設した。床は赤煉瓦れんがで敷き詰められ、壁は青い布のクロス、ショーウインドーも備えた瀟洒しょうしゃな画廊だった。そこに自分の作品や新しい作家たちの絵画、版画、彫刻、短歌を並べて披露した。

 経営者の代わった琅玕洞で、明治45年6月25日〜29日、智恵子の「うちわ絵」と、田村俊子の「あねさま」(千代紙人形)の展覧会が開かれた。

 神奈川県立近代文学館には、ふたりの展覧会の案内状が所蔵されている。6月24日消印、宛先(あてさき)は大田正雄(木下杢太郎)、差出人は「ちゑ/俊」である。文面には「ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。極まりのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらして下さいまし」とある。控えめながら展覧会を待ち望む様子が伝わってくる。

 宛先の木下杢太郎は、当時、光太郎が出入りしていたパンの会のメンバーだった。パンの会とは、雑誌『スバル』で活躍した木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、石川啄木や、美術雑誌『方寸』の山本鼎かなめ、石井柏亭、森田恒友らが、隅田川河畔の西洋料亭で催した談話会である。のちに谷崎潤一郎や小山内薫も加わっている。

 琅玕洞で開かれた智恵子たちの展覧会には、パンの会の吉井勇(歌人)や小山内薫(劇作家)らが来場している。智恵子がグロキシニアを持って光太郎のアトリエを訪れた直後のことである。智恵子は光太郎を通して彼等の住所を提供してもらい、案内状を送ったのだろう。

 この展覧会の様子は、『読売新聞』『青鞜せいとう』『美術新報』などで取り上げられた。出品された「うちわ絵」の値段は1点が50銭〜1円50銭、作品は全部で67点とある。

 作品は、岐阜団扇うちわや渋団扇(柿渋で加工したもの)など様々さまざまな団扇に、自分で地色を塗ったり紙を貼ったりして、動物や花瓶などの「プリミティブ(原始的)」な図柄を描いたものだったという。同じころ雑誌「劇と詩」に描かれた智恵子のカット絵も、花瓶や郷土玩具の図柄だった。日常生活に根ざした女性らしい題材であるが、筆致は至って力強く奔放である。智恵子のはつらつとした人柄がにじみ出ている。

 『美術新報』には、その月の琅玕洞の展示物の中でも、智恵子の団扇絵が面白く、「徳川末期の趣味性と言うより、大阪から来れる江戸風俗を精錬した可愛い芸術」とある。また、のちに富本憲吉(陶芸家)の妻となった尾竹紅吉こうきちは、智恵子の「うちわ絵」を見て、画家ポール・ゴーギャンのタヒチ旅行記「ノアノア」にある明るい色を感じたという。「ノアノア」とはタヒチ語で「かぐわしい」の意味である。智恵子の「うちわ絵」も、江戸風俗に西洋をアレンジした、薫り高い作品だったようだ。

 「あねさま」を出品した田村俊子(小説家)は、智恵子の親友である。俊子の作品には、智恵子をモデルにしたものが多い。小説「わからない手紙」には、郷里の縁談と光太郎との恋愛に揺れる智恵子の女心、芸術に生きたいという純粋な思い、そして郷土玩具に魅せられた智恵子の姿がいきいきと描かれている。智恵子は「吉原の五十稲荷でピラピラの簪かんざしや、おみこしの玩具」を買い、「赤い鯛たいの提灯ちょうちんが欲しいと云って、あれを荷台に乗せて引いて行ったお婆さんの跡を追っかけ」たことがあったという。新聞には、智恵子の部屋に様々な張り子人形が並べられていた、という記事もある。きっと郷里に近い三春の張り子人形を飾っていたに違いない。
  【メモ】高村光太郎(下) 

 帰国後は、彫刻制作とともに文学界にかかわり、美術評論「緑色の太陽」や詩集『道程』『智恵子抄』を発表、近代日本の芸術思潮に大きな影響を与えた。終戦後、岩手で7年間の独居生活を送る。67歳のとき『典型』で読売文学賞受賞。69歳で十和田湖畔の裸婦像制作のため帰京。肺結核により73歳で没。

 
 


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