智恵子の空TOP
【8月2日付】

天上の眼差し/凛とした魂やどる木彫
光太郎作「うそ鳥」(高さ14センチ、幅4.8センチ、奥行5.8センチ)大正14年 作品は引蓋のある桐箱に収められ、蓋の裏には「山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな 大正14年3月 光太郎刀」の毛筆書きがある
光太郎と出会ったころの智恵子(25歳)
大島裕子
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 智恵子の眼には「確かに阿多多羅山の山の上に出ている天空があった」。大正3年の結婚以来、光太郎は窮乏生活の中で、天上の気配を漂わせた智恵子の眼差まなざしに支えられて、多くの彫刻作品を作った。

 美を育はぐくみ、形にするには「必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあろう。大君の愛であることもあろう。又実に1人の女性の底抜けの純愛である事があるのである」「私はそういう人を妻の智恵子に持っていた」(「智恵子の半生」)という。

 大正13年9月、光太郎は「木彫小品を頒わかつ会」を発表、「栄螺さざえ」「鯰なまず」「蝉せみ」「柘榴ざくろ」などの木彫作品を作った。木彫は父や世間に受け入れられ、作れば確実に収入を得るようになる。木彫「うそ鳥」は翌14年の作品である。「山の小鳥の気魄きはくを木で出して見たく」なった光太郎は、毎日、籠(かご)の中のうそ鳥を眺めた。

 2、3日かけて鑿のみを研ぎ、1週間で一気に完成させている。そうして出来た「うそ鳥」を光太郎は毎日懐に入れて持ち歩き、食事の時も傍に置いて放さなかった。「私にも持たせて」と智恵子も作品を柔らかい紙に包み、大切に懐に入れて持ち歩いた。

 先日、木彫「うそ鳥」を間近で拝見する機会があった。実際に作品を前にすると、周りの空気や空間まで、いつもと違った気配を帯びたように感じられる。ふと気がつくと、「うそ鳥」が小首をかしげてこちらを見つめている。目と目が合った瞬間、今にも動き出しそうな気魄に胸がどきっとした。ふたりが交互に持ち歩いた、お守りのような木彫である。高さ14センチほどの小さな檜ひのきの塊なのだが、光太郎や智恵子の凛りんとした魂が、今もふつふつと湧き出ているようだった。

 光太郎のアトリエに、うそ鳥が入った籠を届けた尾崎喜八(詩人)は、その時の様子を随筆「智恵子さんの思い出」に回想している。持参した小鳥は、漆のような黒い頭と、薄墨色の背と羽根と、桃色の喉のどをした美しい雄だった。アトリエで別の籠に移そうとすると、智恵子は息をつめて動作を見守った。うそ鳥は「ヒュー」と一声鳴いて籠の中に飛び移った。

 その瞬間、智恵子は「ホッ!」と声を上げた。その声は山の生き物への愛いとおしみのようであり、また安達太良山と阿武隈の、東京には無い「智恵子の空」への回帰のためでもあるように響いたという。

 思い起こすのは、《智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。》で始まる光太郎の詩「あどけない話」である。《智恵子は遠くを見ながら言ふ、/阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。/あどけない空の話である。》

 大気汚染のない大正時代の東京なら、美しい空があったはずである。それでも独身時代の智恵子は1年の半分を山や海で過ごしている。結婚後も1年のうち3、4カ月は郷里の家に帰っていた。東京の家でも庭の雑草を写生したり、トマトを栽培したり、またベートーベンの交響曲第六番「田園」に心酔している。

 以前、ふたりの足跡を思いつくままに訪ね歩いたことがあった。遠き日の旅の軌跡に、忘れかけていたものを思い出したり、ばらばらな心の断片が、もう一度ひとつになったりすることがあった。自然の中で魂が癒やされるとは、こうゆうことなのだと気付かされた。

 慌ただしい日常生活の中で出合った木彫「うそ鳥」もまた、天上の気配を漂わせていた。自然への希求を満たそうとした、智恵子の透明で純粋な想おもいがよみがえってくる。
  【メモ】ウソ(=鷽、アトリ科の鳥)

  翼長約8センチ、スズメより大きく、笛のような美しい声で鳴き、飼い鳥にされる。頭と尾は青灰色で翼は黒く、雄はのどが桃色で美しい。幸せを呼ぶ鳥との説もあり、木製のウソを互いに取り換える「鷽替の神事」が天満宮などで行われている。
 
 


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