智恵子の空TOP
【8月9日付】

いみじき嘆き/甘く切ない恋愛に涙
智恵子作紙絵(23.5センチ×28.2センチ) 「詩であり、抒情であり、機知であり、生活記録であり、此世への愛の表明である」と光太郎が賞賛した紙絵作品は千数百点に及んだ 
アトリエにて 昭和3年夏 智恵子42歳、光太郎45歳
大島裕子

 大正元年8月18日作の光太郎の詩「涙」には、智恵子と一緒にアイスクリーム(氷菓)を食べたことが描かれている。

 《松本楼の庭前に氷菓を味へば/人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ/かすかに耳なれたる鈴の音す》。今も昔も、真夏の炎天下で食べる冷たいアイスクリームは格別である。

 ふたりがアイスクリームを食べた背景には、半月前の明治天皇崩御という《いみじき事》があった。日本中が悲報に涙している時、智恵子と光太郎は自分たちの恋愛の事情に涙を流している。これも《或るいみじき嘆き》であり、《人よ、われらが涙をゆるしたまえ》と結んでいる。

 智恵子が最初に光太郎に送った手紙も「かなしいことになりました」で始まっていた。おそらく郷里の医師、寺田三郎氏との縁談が進んでいることを打ち明けたのだろう。ふたりが食べたアイスクリームは、甘く切ない味がしたことだろう。

 同じころの光太郎の詩には、《珈琲(こーひー)は苦く、ショコラアは甘し》(「或日の午後」)など、おしゃれな食べものや飲みものが登場する。たとえばビフテキ、シチュー、ライスカレー、コンコンブル、コーラ、カフェオレ、ウーロン茶となぜかハイカラな「食」ばかりが並ぶ。当時の欧米文化への強い憧(あこが)れが感じられる。

 昭和の時代になると、智恵子と光太郎は緑茶をよく嗜たしなんだ。特に光太郎の父、光雲が持参して一緒に飲んだ、宇治の玉露「碧乳」は絶品だった。法隆寺の貫首からの贈り物だというから、最高級の玉露である。

 智恵子はお湯の温度と「間」を計りながらお茶を入れた。その儀式のような瞬間、心は落ち着く。「3人は静かにそれを味わって黙っていた。それは古代な、奥深い、不思議な時間」(「新茶の幻想」)だった。

 智恵子が飲んだ玉露の味わいは《ダビンチの絵に似た美妙さを持つ。その落ち着き、あざやかさ、こまやかさ、複雑を極めた純一の調和》《味自身まるで時代でも経たもののよう、爽やかさは野葡萄に結ぶ結露、松風の薫り》(「画室の冬」)だったという。一度、飲んでみたいものである。

 智恵子が病床で作った紙絵は、日常の食材を扱ったものが多い。中でも目を引いたのは、器に盛られたサツマイモである。サツマイモは光太郎の大好物だった。近所の八百屋が驚くほど、光太郎はサツマイモをよく食べた。特に好きだった焼き芋も紙絵になっている。

 サツマイモを紙絵で描いた智恵子、しかし本人はお芋が嫌いだった。それでも光太郎に「どうぞ召しあがれ」と差し出しているようだ。愛する者への心づくしが紙絵から伝わってくる。時代が戦中から戦後になると、智恵子が愛した「山の幸」を光太郎も食べるようになる。

 春はフキノトウ、タラノメ、コゴミ、ミズ、ハコベ、ヨメナ、ノビル、カタバミ、ワラビ、ゼンマイなど。秋になるとキンタケ、ギンタケ、ハツタケ、ムラサキシメジ、クリタケ、マイタケ、ウスタケ、ナメコなどのキノコを食した。

 光太郎が大の苦手だったのは、オニフスベである。「田舎でよく食べた」という智恵子によれば「清汁に入れて、噛むとぽつりと皮の割れる具合は松露(しょうろ)以上」に美味おいしいのだそうだ。

 図鑑で調べてみると、白くて大きなマシュマロのお化けのようなオニフスベの写真が載っていた。一応、「食用」となっているが、菌特有の臭さがあるようだ。オニフスベが「松露以上」に美味しいという智恵子は、よほどのキノコ通だったに違いない。
 【メモ】智恵子の紙絵 

 
東京南品川のゼームス坂病院に入院した智恵子が作った切り紙細工。大きな反響となったのは、昭和26年6月4日〜10日、銀座の資生堂画廊で公開された展覧会。それまでは「切抜絵」「切絵」と呼ばれたが、光太郎の「紙絵というジャンルが油絵というようにあってもいいだろう」という言葉で「紙絵」と呼ばれるようになった。
 
 


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