智恵子の空TOP
【8月16日付】

「樹下の二人」彩る思い/空白埋める手紙
父の3回忌で帰省していた智恵子と光太郎が泊まった穴原温泉の吉川屋
穴原温泉「吉川屋」から送った絵はがき
大島裕子
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 《あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。/ここはあなたの生まれたふるさと、/あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫》。智恵子の故郷、福島の情景を謳うたった詩「樹下の二人」の一節である。

 この詩が作られたのは大正12年3月11日。それまでの9年間、光太郎は智恵子に関する詩を発表していない。

 昨年、光太郎の未公開の手紙55通の所在が明らかになった。光太郎が友人の田村松魚(しょうぎょ)(小説家)に宛てたハガキで、消印はいずれも大正中期、「空白の9年間」に書かれたものである。手紙は松魚の子孫、福島深氏が保管していたもので、法政大学に委託され、『日本文学誌要』(第72号・第73号)で間宮厚司氏らにより公開された。田村松魚は幸田露伴門下、「パンの会」に出入りしていた時期に光太郎と知り合い、また松魚の妻、田村俊子(小説家)は『青鞜せいとう』などを通して智恵子と知り合った親友同士だった。

 松魚の小説「歩んで来た道」には、光太郎が松魚に彫刻を教え、「貝」を題材にした木彫を手がけたことや、智恵子がそれを見て「面白がって法螺貝ほらがいを土で」作ったとある。

 また、何かの拍子に、光太郎が「木彫は女には不適当な仕事だ」と言うと、智恵子は「そんなことはない。女にでもやれないことはない」と言い張ったという。一途いちずで負けん気の強い智恵子の一面が伝わってくる。

 公開された手紙には、智恵子に関して書かれた個所がいくつかあった。智恵子は大正8年の3月と7月に入院し手術を受けているが、松魚に宛てた光太郎の手紙には、同年1月にも智恵子が何かの病気で手術をしたとある。

 「経過はまず悪い方では無い様ですが、麻酔の長かった為少し悪心を感じているようです。1週間もたったら少しはよくなるでしょう」「昨日は本当に神経をめちゃめちゃに痛めました」。智恵子を気遣う光太郎の心情が垣間見える。

 大正9年3月12日消印の手紙には、郷里から戻った智恵子が「大層健康になって肥ふとって昨夕帰って来ました」「しばらく田舎に居た人を見ると東京の生活の神経的に慌れて濁っている事を感じさせられます」とある。東京にいると病気になり、実家に帰ると元気になった智恵子。故郷の豊かな自然に癒やされ、実家の庇護ひごのもと、気ままな娘時代に戻れたのであろう。

 同じ年の5月10日消印、福島の穴原温泉「吉川屋」から出された絵葉書には、「穴原というのは弦歌の巷ちまた、飯坂温泉の奥の幽邃ゆうすいの勝地です」とある。父の3回忌で帰京していた智恵子の元へ光太郎が訪ね、一緒に穴原温泉に泊まった折に出された手紙である。

 ふたりは実家の裏山や、二本松の安達ケ原を散策、「樹下の二人」はこのときの情景を、大正12年に詩にしたといわれている。詩の中の智恵子は《魔もののやうに》《妙に変幻する》《不思議な別箇の肉身》と描かれている。智恵子は変わってしまったのであろうか。

 大正11年の智恵子の手紙には、5年間で立て続けに4人もの身内を亡くした衝撃や心労で《普通のレベルにいません》とある。《私は自分の愛するもの、親しいもの、なくてはならないものの死をあまりに経験しすぎる程してきました》

 また、《人生はたのしいばかりのものでも苦しいばかりのものでもなく、其両方面が交錯して織られてゆくものなのでしょう》と健気(けなげ)な言葉が綴(つづ)られている。

 重苦しく哀しい運命ながら、詩「樹下の二人」の澄んだ情景描写は人々の感動を誘う。
 【メモ】穴原温泉 福島県の北西部に位置し、阿武隈川の支流である摺上川の上流、緑深い谷間に広がる奥飯坂の温泉。大正9年、智恵子と光太郎が泊まった「吉川屋」は、天保12(1841)年開業の現在も続く老舗旅館である。
 
 


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