智恵子の空TOP
【8月23日付】

愛の世界織りなす情景/故郷の足跡
鞍石山「樹下の二人」詩碑(昭和58年10月建立)
「二本松御城郭全図」に描かれた「宮下御殿」
大島裕子
▽8

 薄緑色の松風が立ち、鮮やかに紅葉した木々の葉が散り始める。晩秋から冬にかけての切ない情景は、光太郎の心を揺さぶり、詩「樹下の二人」に美しい愛の世界を織りなした。智恵子と光太郎が歩いた、故郷の足跡を少し散策してみる。

 大正9年5月、『続ロダンの言葉』の印税が入った光太郎は、新緑の福島を訪れ、智恵子と一緒に安達ケ原を歩いた。詩「樹下の二人」の冒頭の《みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ》という短歌はその時に作られている。

 「高村光太郎聞き書」には、「『樹下の二人』の前にある歌は安達ケ原公園で作ったんです。僕が遠くに居て、智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。詩のほうはお寺にゆく道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐すわって2人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです」とある。

 安達ケ原(観世寺)は、謡曲や歌舞伎でも知られ、今も鬼婆の住家だったという岩屋などが残されている。鬼婆の墓といわれる「黒塚」に隣接して「安達ケ原ふるさと村」があり、「先人館」には智恵子の紙絵(複製)や、光太郎の彫刻「裸婦座像」などが展示されている。

 《あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川》で始まる詩の本文は、短歌とは別に作られた。ふたりは「お寺にゆく道の山の上」で、《冬のはじめの物寂しいパノラマの地理》を目にした。その場所は、どこだったのだろう。

 生家の裏山からお寺(長沼家の菩提ぼだい寺=満福寺)まで歩いてみた。まず、生家裏の石段を上がると智恵子の筆による「熊野大神」(大正5年)の石碑がある。さらに「愛の小径こみち」と呼ばれる散策路に沿って歩いて行くと、鞍石山(標高約270メートル)の「樹下の二人」の詩碑にたどり着く。ここからの眺望は詩情を誘うが、鞍石山は智恵子が生まれる前から墓地だった。

 「或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖がけに腰をおろし、パノラマのような見晴らしをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に「岳」と通称せられる阿多多羅山(安達太郎山)が見え、前方はるかに安達ケ原を越えて阿武隈川がきらりと見えた」と光太郎は言う。鞍石山からのロケーションは、安達太良山を「右に」見ると、阿武隈川は「前方」ではなく後ろになる。

 お寺の脇にある道を北西に上っていった場所に「御涼場山おそそんばやま」がある。山の頂上は広場になっており、300年以上前、ここに丹羽光重公の別荘(宮下御殿)があった。

 草木が茂る細い山道を、地元の方の案内で御涼場山まで登った。頂上に着くと急に視界が開け、青く澄んだ空と360度のパノラマが眼下に広がった。樹木が伸びて生家や阿武隈川を容易に見つけることはできないが、実家の《白壁の点点》の方向を正面にした時、安達太良山は「右」に見え、また松林や崖もあり、光太郎の言葉に適かなっているように思われる。

 智恵子の母校、油井小学校に運動場がなかったころ、御涼場山で運動会を開いていたという。また、頂上の広場には地元有志による石碑があり、智恵子の父、長沼今朝吉の名前が刻まれている。

 山頂で《足をのびのびと投げ出して、/このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を》存分に吸ってみた。《御互に出来るだけ楽天家になりましょうね。大空をみて一ぱいに息をすいましょうよ》と母親に送った智恵子の言葉が聞こえてくるようだった。
 【メモ】宮下御殿 

  二本松の初代藩主、丹羽光重公の別荘。満福寺の北西、標高310メートルの小高い山にあった。『安達郡役所』(明治44年)には、「此地三方に山を負ひ南一方を開き二本松竹田の坂を望み、北の山を日下山といふ。頂上を俗に御涼場と称へ、東北を眺望し信達しんたつの諸山一眸いちぼうの下に集り、風景頗すこぶる佳にして静閑の地なり」とある。
 
 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29
ネットワーク上の著作権(日本新聞協会)
国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) 2001-2004 THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN