智恵子の空TOP
【8月30日付】

悲しみ支える深い愛/「あどけない話」
智恵子作油絵「ヒヤシンス」(27.1センチx21.3センチ)。大正初期、帰郷の折に生家で描いた=二本松市歴史資料館所蔵
明治初期に建てられた造り酒屋の建物を復元した「智恵子の生家」=二本松市油井字漆原町36
大島裕子
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 《智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ》《智恵子は遠くを見ながら言ふ、/阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。/あどけない空の話である》。詩「あどけない話」(昭和3年5月作)の一節である。

 「あどけない」を辞書で引くと、「無邪気でかわいい」「無心な」「幼い」とある。「矢も楯たてもたまらぬ気性を持っていたし、私への愛と信頼の強さ深さはほとんど嬰児えいじ」(「智恵子の半生」)のようだったという智恵子は、確かに純真でまっすぐな女性だったのだろう。

 他にも『智恵子抄』には、《をさな児のまことこそ君のすべてなれ》(「郊外の人に」)、《をさな児のごとく手をのばし》(「冬の朝のめざめ」、《忽ち童話の中に生きはじめ》(「深夜の雪」)と、智恵子の純粋無垢むくな姿が描かれている。

 一読すると「あどけない話」は、妻の望郷の念を謳うたった「あどけない」詩だが、「『智恵子抄』は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」(『智恵子抄その後』序文)と光太郎はいう。収録されている智恵子の病中や死後に書かれた詩はともかく、結婚前後の溢あふれ出るような恋愛詩も含め、すべてが苦しく悲しいという。

 作品は作者と切り離して鑑賞することもできる。しかし、「徹頭徹尾くるしく悲しい詩集」という言葉に込められた光太郎の真意を理解しようとすれば、作者やその背景を作品に照射することで、詩はまた違った光彩を放ってくる。

 第一次世界大戦の反動恐慌のあおりで、大正9年ごろから智恵子の実家の盛運にも陰りが見え始める。大正15年、智恵子の父の死後に家督を相続し、新しい妻を迎えた長男の啓助は、今まで同居していた母、妹セツ、姪めいの春子たちとは一緒に住めないから出て行って欲しいという。

 同年9月13日付の智恵子の手紙には《今後のおっかさんの生活の事、せつ子の事、春子の事をちゃんと具体的の条件…それをきめないでは出てなりませんよ》とあり、母や妹たちの生活を憂慮しながら、すでに郷里の家族がばらばらになる前兆を智恵子は感じている。

 その間も智恵子は絵の勉強を続け、画家になる夢を捨てていない。同じ智恵子の手紙には、アトリエの《二階の天井を高くして、二階を私の画室になおしています》《勉強に専心いたします。磐梯山の絵も落ち着いてから描こうと思っています。山の上でよく研究はして来たのですから、何しろ自分で生活の力を得なければ、何が何でもだめですから》とある。

 昭和2年、全国的な金融恐慌が起こり、それまで養蚕業で潤っていた福島県下のほとんどの銀行が休業に追い込まれ、光太郎と智恵子の生活も困窮を極める。

 昭和3年、詩「あどけない話」が作られた5月10日は、郷里の油井字漆原町21の1番地にあった実家の土地家屋の仮差し押さえが福島の裁判所で決定された日だった。

 こうした事情を知っていた光太郎が詩「あどけない話」を作ったとしたら、それは単なる望郷を謳った詩ではなく、「故郷の喪失」という残酷な運命を目の当たりにした智恵子への同情や、深いいたわりが込められていることになろう。

 あらためて『智恵子抄』を読み返すと、今まで気付かなかった、2人の深い愛に触れることができる。
 近代という時代の荒波を「一個人」として生きようとした2人。《光太郎智恵子はたぐいなき夢をきづきてむかし此所に住みにき》と詠うたった「たぐいなき」夢は、今も輝きを失ってはいない。
 【メモ】「智恵子抄」 

 
昭和16年8月20日龍星閣から刊行された高村光太郎の第2詩集。智恵子との恋愛のはじめから亡くなった後まで、30年間にわたって書かれた詩29篇、短歌6首、散文3篇が収録されている。戦後、さまざまな出版社から同名の詩集が刊行。それらには最初の版の刊行後に書かれた作品や、未収録のものも収められている。
 
 


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