連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 購読申込  
 
ふくしま 団塊の道標TOP
▽10  【07 3/18掲載】
海野志ん子さん
(生と死を考える福島の会代表)
海野志ん子さん
「今、生きているこの時間を大切にしたい」と話す海野さん
 
今を生きる大切さ/重い問題と真正面から
 肉親や親しい人の死、さらには自分の死と、人はどう向き合えばいいのか。「生と死を考える福島の会」代表の海野志ん子さん(59)=福島市=は20年前、父の死をきっかけに誰もが背負う重い問いかけと正面から向き合い始めた。「死を考えることは、同時に生を真剣に考えること」と言う。
 ただ、死を受けとめるまでには時間が必要だった。「原点は18八歳」と言う。「そこから同世代の人たちと違う生き方になってしまった」
 団塊の世代が小、中学校、高校を過ごした昭和30年代、受験競争が熱を帯びた。海野さんが進んだ郡山の女子高にも張りつめた空気があった。「私は、いわゆる優等生タイプ。当時は進学が人生のすべてだった」と言う。そんな生活が3年生の9月、暗転した。
 心筋炎で倒れ一時、意識不明になった。入院は10カ月に及んだ。見舞いに来てくれた級友や教師も、受験が迫ると足が遠のいた。翌年6月、高校に復学したが1年遅れの受験も高熱で試験場へ行けなかった。「20歳を前に目標がなくなった。孤独、孤立、絶望が一度に押し寄せた」
 そんな時、海野さんを支えたのが中学の時、群馬へ転校した親友だった。入院中、親友は受験勉強の合間に幾度か病室を訪れ、手紙は週に何通も届いた。
 1967(昭和42)年、海野さんは回復に向かった姿を見せるため「7月、群馬へ遊びに行く」と、東京で大学生活を送る親友に手紙を書いた。しかし、親友に届いた手紙はそれが最後になった。
 親友は、海野さんの手紙を下宿の枕元に置いたまま急死。心臓まひだった。海野さんは「彼女の死を受け入れることはつらかった。目標もなく人生の危機だった」と言う。
 その時、海野さんを救ったのが夫となった人の言葉だった。夫は両親に進学を反対されていた海野さんに「結婚すれば大学に行ける」と言った。海野さんは「変なことを言う」と思いながら誠意を受け入れた。
 その後、34歳で福島大経済学部の夜間主コース、55歳で東洋英和女子学院大大学院を修了した。「団塊の世代に共通するのは、あきらめないこと。そして人は皆、きょうを精いっぱい生きるしかない」。だから今、親友に「生きている」と胸を張って言える―と海野さんは言う。
=第二部おわり=
 生と死を考える福島の会 1994(平成6)年、桜の聖母短大の公開講座の受講者らで、生と死について真剣に学び考える場として結成。死への準備教育の普及、終末期医療の充実、死別体験者との分かち合いを活動の柱とする。
 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29
ネットワーク上の著作権(日本新聞協会)
国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN