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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  みちのくに花開いた大伽藍  ー
 
 広大な寺域 十分に体感

 ―奈良七重 七堂伽藍(がらん) 八重ざくら―。奈良の若草山を訪れた方で、この句碑を目にされた読者も多いであろう。芭蕉の作ともいわれる有名な句で、てにをはがなく、すべてが名詞で詠まれていることでも特異な作品だ。

 「奈良七重」は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁と、奈良時代七代続いた天皇を指し、さまざまな堂宇(金堂・講堂・塔・経蔵・鐘楼・食堂・僧房の七堂を示すともいう)を備えた南都の諸大寺を「七堂伽藍」(興福寺をはじめとする南都七大寺の意とも)で表して韻(いん)を踏んでいる。

 「小倉百人一首」にもあって、平安時代の歌人、伊勢大輔(いせのたいふ)の「いにしへの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな」を本歌としているらしく、八重桜は古歌にも名高い。ちなみにこの八重桜は、いわゆる豪華な牡丹桜ではなく、奈良県の県花にもなっている天然記念物の「ナラノヤエザクラ」という品種を指している。奈良の市街地では、季節で最も遅く咲く桜だ。

 さて、県内広しといえども、いわゆる七堂伽藍を備えた寺院はそうそうに目にすることはない。そのような大伽藍が、往時の慧日寺にはあった。中世に描かれた「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)恵日寺絵図」には、金堂や講堂をはじめ三重塔など、まさに「七堂伽藍」と呼ぶにふさわしい建物が所せましと描かれており、実際の発掘調査においても、中世はもとより古代に遡(さかのぼ)る礎石建物跡が中心部から何棟も確認されている。

 慧日寺跡の整備では、開祖徳一を含めた歴史理解の観点から、初期の伽藍を対象とした整備方針を採っているため、盛時の大伽藍をすべて表示することはできない。それでも竣工(しゅんこう)後は南都にも引けをとらない、広大な寺域の広がりを体感することが十分可能だ。

 寺跡の中心部は、南西に緩く傾斜する地形を階段状に整地して平坦面を造り、その上に建物を築いている。具体的には、まず金堂の南には中門があって、両者の間には石敷きの広場が広がる。

 一方後方には、2棟の建物跡が南北に並ぶ。南から七間×四間、五間×三間の規模で、いずれも礎石の配置から切り妻造りの堂宇であることが分かる。これらは、位置や規模などから講堂・食堂と想定される。

 講堂は、中心伽藍の中でも最大規模を誇る建物跡であって、それはすなわち徳一の教学研鑽(けんさん)の遺志を反映する。さらにこれらの東側、一段高い平坦面にも五間×四間の建物跡が残り、金堂・講堂と同じころの仏堂と考えられている。

 整備では、こうした建物跡を講堂・食堂といった北半部を平面表示、金堂を中心とした南半部を立体的な復元という2つの異なる手法をとった。文化財保護行政の立場からは、遺跡の保存あっての整備が第一義ではあるが、積極的な活用も提唱される昨今、建物復元を含めた整備を通して、当時の寺院空間の中心部をより具体的に理解することが、ひいては史跡全体を知る手助けとなると期待している。

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 桜花爛漫(らんまん)、会津にもようやく花の便りが届いた。金堂跡の裏手にも「種まき桜」と呼ばれるエドヒガンザクラの古木がある。800年以上もの昔、慧日寺の宗徒頭(しゅうとがしら)であったという乗丹坊(じょうたんぼう)が挿した桜の杖(つえ)が、この木になったという伝承から「木挿し桜」の別称を持つ。

 毎年、小さく白い可憐(かれん)な花を付け、粉雪を掃いたように舞い散る散り際もまた美しい。今年も間もなく見ごろを迎えそうだ。みちのくに花開いた七堂伽藍。いにしえに思いを馳(は)せながら、山あいの春を愛(め)でて一句いかがであろう。

 磐梯町のホームページでは、桜の開花情報を随時更新している。併せて、ご覧いただければ幸いである。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 3 】

慧日寺跡の春を彩る「種まき桜」

南北に並ぶ中心伽藍

【2007年4月25日付】
 

 

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