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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  1000年建物への挑戦  ー
 
 宮大工の伝統生かす

 柱材に使用するヒノキは、製材して木作りを行うまでの間、乾燥期間を設ける。その際に柱の背から芯(しん)まで割れ目を刻んで風を入れる。これを「背割り」と呼ぶ。

 一般に、樹木は内芯と外辺では乾燥による収縮率が異なる。特に、芯持ち材は必ずといってよいほどひびが入るため、前もって刻みを入れておき、それ以上の割れが及ばないようにするための工夫だ。割れ目には後で埋め木をして細工をする。しかし、この技法は原木の質や製材までの期間が大きく関係したようだ。

 その昔、木を伐採してから運搬するまでは、場所にもよるがおおよそ1年ほどを費やしていた。まず伐採した原木は、枝を残して倒して置く。倒れた後も、枝は成長を続けようと樹液を吸う。いずれ樹液は底を尽き、枝も枯れる。その後運搬に移る。山から伐り出した原木は川を使って流すが、その中で僅(わず)かに残った樹液も洗い流される。

 さらに陸揚げして運ぶ間に、流し木によって吸い込んだ水分が乾燥し、建設現場に着く頃(ころ)には、ちょっとやそっとでは割れない乾燥材になっているという仕組みだ。

 とりわけヒノキは、伐採後200年頃から強さを増し、以後1000年はその状態が維持されるという。有名な東大寺大仏殿の再建を例にとってみよう。治承4(1180)年、東大寺は平氏の焼き打ちにより焼失した。焼失後の盧舎那仏(るしゃなぶつ)の修理、大仏殿の再建、諸仏造立などの経緯を編年的に記録した『東大寺(とうだいじ)造立(ぞうりゅう)供養記(くようき)』にその様子が詳しい。伽藍(がらん)再建に奔走した大勧進(だいかんじん)重源(ちょうげん)(1121―1206年)は、大仏殿に用いる巨材を求めてはるか周防国(すおうのくに)(山口県)まで足を運んだ。

 必要とする柱材は、長さが7―10丈(約21―30メートル)、太さは5尺4、5寸(約1.6メートル)にも及ぶ巨木だ。奥山から伐採した原木は、佐波川(さばかわ)を下って海に運ぶ計画だが、川に至るまでは谷を埋め、岩盤を砕いて山路を開き、衆木の伐採、棘(いばら)の除去、谷への架橋が行われた。ところが、佐波川は川底が浅く30メートルを超す木材はうまく流れない。そこで、118カ所にも及ぶ堰(せき)を各所に設けて流水を止め、その一部に細い水路をつくって流し木した。これが有名な「佐波川関水(さばかわせきみず)」だ。

 現在はほとんどが破壊されてしまったが、旧状を伝える一部は、中世の土木技術を知る重要な遺跡として国の史跡になっている。その後、海路は筏(いかだ)を組み、木津川を遡(さかのぼ)り、泉木津からは牛120頭の大力車で東大寺まで運んだ。

 こうして、世界最大の木造建築物といわれる大仏殿は、遠路500キロを旅した材木によって再建されたのである。

 ところで、「堂塔の建立には木を買わず山を買え」ということばがある。有名な法隆寺の宮大工、西岡家に伝わった家訓である。木は土質や気候風土によって性質や癖が異なる。同じ環境の木を使い、その癖を見抜き生かして使うことが、堂塔をより美しく、そしてまた長く保つ秘訣(ひけつ)なのだという。同じヒノキでも、木曽であったり、吉野であったりの材を混ぜて使っては良い建物ができない。

 つまり、一つの山の木で一つの堂塔を建てるべきだという、宮大工ならではの口伝だ。

 また、「木は生育の方位のままに使え」ともいう。木には南に面する「日面(ひおもて)」と、北面の「日裏(ひうら)」がある。日面は枝が多いため節が多く、脂ぎって木目が粗い。一方、日裏は木目がきれいだが、木に力がないという。

 伐採した後もこの性質は残り、日当たりに慣れていない日裏を南にして柱を据えたりすると、乾燥してねじれやひねりが出やすくなる。復元金堂においてもこの伝統は生かされ、加工に際しては36本すべての柱の立柱方向・場所が前もって決められた。

 新たな1000年建物への挑戦が、会津の地で今まさに始まったところだ。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 5 】

1本1本の配置を示す墨付け作業(後方は背割りの入った柱)

東大寺の大仏殿では元禄年間の再々建の柱材を見ることができる

【2007年5月9日付】
 

 

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